どういう人間でも、精神的安定のためには、或る自己中心性が必要だ。これは精神的な自分本位性であり、世界にたいする自分の観方を肯定して生きることにほかならない。すなわち、精神的自立・独立である。自分にとっての世界にたいする判断においては、自分が絶対主権者である、という自己肯定意識があって、はじめて人間は精神の安定を得る。 自分の意識(精神)境位が不完全で途上的であるのは人間の常であり、これを承知で、この途上性を前提して、ぼくは、各自の「判断における絶対主権性」を、いま言っている。
悪すなわち罪は、なによりも、自分においても他者においても この主権性を壊すことである。はっきり言って、この悪・罪を為さないことは、真理よりも大事である。なぜなら、この独立主権すなわち意識の自由に基づかなければ、真理を真理として了解することもできないからである。服従させる真理はもはや真理ではない。それは悪魔の道具である。
各自は、世界において自由に判断する主権を、謂わば「王者の権利」を持っている。判断は自由だ。しかしそれは各自がすべて持っているものであるから、自分の意識のなかでどんな判断をしようとも、それをいつでも他者も受け入れるべき〈客観的〉判断として言表することは、人間失格のしるしである。他者への無礼であるだけでなく、自分自身をも純粋に生ききっていないから、そういうことを為すのである。なぜなら、たとえ根源は自分の感覚や判断である場合でも、それに自分の内で「教義性」をあたえてしまっているからである。この意識形態は、世で広範にみられる狂気であるとぼくは思っている。そしてそういう者は、自分の感覚や判断に教義性をあたえる前に、それ自体教義そのものであるようななんらかの原則を、〈客観的〉なものとして受け入れてしまっている者である、とぼくは思っている。
もし、自分の内面性をほんとうに純粋に生きていれば、他への言動にもおのずと秩序や配慮が培われている人間になるはずである。たとえそういう人間でも、「途上の途上」においては、その純粋さゆえに言いたい放題の爆発期がありうるにしても、ほんとうに意識性のある者なら、自ずから気づいて改悛しあらためてゆくはずである。この意識性の欠けた者、そして、根底において教義性に固まった者が、人間の精神の健やかさのためにいちばんよくない者であることを、人生経験も教えている。そうではありませんか。