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日本では、「あのひとは変わっている」という周囲の評を当事者が聞くと、なんとなく当事者自身が、ちょっと自粛しなければならないかな、という気持にさせられる空気がある。あるいは、そうか、ではそれを売りにしてやれ、と逆に衒うかだろう。いずれも他の目線を意識することが中心となっている。どっしりとその中庸に落ち着くということは、稀だろう。中庸はいつも根源的で、その意味で最もラディカルな態度だとぼくは思っている。日本では、この中庸の根源性は意識されずに、世間相手のそこそこのバランスという意味しか、中庸の観念において解されていない。ここにも、日本の者たちのなかに「神」の意識がほとんどないことがあらわれていると思う。 ヨーロッパ文化圏でも、「あのひとは変わっている」などという周囲の評は、当然交わされるが、それで当事者に自粛をうながすという意味合いはないと感じる。「自分に固有の在り方をしていることが際立っている」、という意味で言われるのだ。ぼくはヨーロッパで最初に居たドイツで、そこの教授からさっそく、「彼はアイゲンアルティッヒ(eigenartig)だ」と評されたのを伝え聞いた。まさにぼくがいま言った意味の言葉で評された。フランスでさえ至るところでそう思われたようだ(と思う)。それでぼくの人間が信用されなくなったのでは全然なく、信頼できる人間だと最後まで思われていたらしい。独断でライン河を渡ったような人間だから、自分の「固有性」は根源に根が生えていると言える。ぼくは真に「中庸」であり、同時に「変わっている」のである。自分に従うのみの人間であり、それゆえ常に「神」に面している。そういう生き方しかしてきていない。 

 自分のことを書いてしまったが、日本でも、「変わっている」と言われても、それをそのまま肯定して、自然体で生きとおす堂々とした人間が、増えればよい。問題は、「神」の意識をしっかり有しているかどうかだ。 「秩序」はそこにしかないから。