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謙虚は自分を低めることではない。つねに「人間」対「人間」という意識しかないことが〈謙虚〉と言われている態度の本来の本質なのだ。

「片寄り」そのものはいけないことではない。そのつど情熱を傾ける人間に、片寄らないということはありえない。片寄りを禁じたら精神の「運動」(Bewegung)〔ヤスパースにおける実存概念の重要要素〕つまり精神の生そのものがありえないだろう。「片寄り」がいけないのは、自らの意識をそこに固定して精神が運動できなくしてしまう場合だ。精神は謂わば振り子運動(あるいは螺旋運動)をしながら自覚を深めてゆく。極端に振り切った点で止めてしまうのが「悪しき片寄り(偏り)」であるなら、中点で止めてしまおうとするのも計らい心による「偽りの中庸」だ。人間の精神がそういうものだと一旦気づいてしまえば、「精神の秩序」を感じつつ感情が自由になって、奔放にみえても則(限界)を越えない。〈自分の本質を見失う境界〉が、識閾のようにはっきり感じられるから。これを「秩序意識」のない者からみれば、〈自分達との相違〉ははっきりしないほど自然だとおもえるだろう。片山敏彦が高田より先にロランの人間性に直に触れて、「(あの求道的理想主義者?の)ロランがきわめて(奔放な快楽主義者?の)ゲーテ的なのに君は驚くよ」と高田にあらかじめ告げたのも、真の人間が、いかがわしい融通無碍ではなく、徹底して真摯な反省と経験の蓄積によって遂に達した「精神の自由」を示している。たとえば「天衣無縫」な中川の画に、自分を支払った蓄積による開放を感じるだろう。 自己実践が覚束ないうちに〈気づいた〉ことを早々と〈発信〉しても、本物の地道な実践者に遙か及ぶはずがない。人は生んだ具体的作品(仕事)の感動によって評価される。箇条書き標語表は精々「人間が(まだ)住んでいない壮麗な建物」(キルケゴールがヘーゲルの概念体系を批判した言葉)でしかない。ゲーテの箴言はすべて自分という「人間」の運動のその都度の判断の束であると解してのみ、ある種の権威主義から解放されてその本質から了解しうるものである。ゲーテを尊敬していたニーチェ(無人島に一冊持ってゆくとしたらエッカーマンの「ゲーテとの対話」だ、と言った)のアフォリズムについても同じことが言えると了解したのもヤスパースだった。