カント「純粋理性批判」のカテゴリー表を参照してもらえれば分るように、世界の現象を解釈するための道具である諸概念は、対象の側にあるのではなく、思惟し認識する主観であるわれわれの側にあるのである。即ち、「原因」や「結果」という概念も、「空間」・「時間」という現象の直観(Anschauung)形式〔現象受容の枠〕とともに、主観に属するのである。だから、三次元(空間)・四次元(時間)をも超えた所謂高次元に思いを馳せる場合は、現象を解釈するわれわれの概念のいっさいを捨てて思惟しなければならない。

 さて、そういう高次元の存在は、可能性としては思惟できても、集合容喙現象におけるような高度の共時性現象の経験がなければ、ぼくはそういう存在次元を現実のものとして真剣に思惟することはなかっただろう。共時性現象がわれわれに驚異に思えるのも、時間・空間レベルでの計算的予測をもってしては不可能であることが直接に感知できるほどの共時性が、その現象のなかにはあるからである。予測という観念を、その基礎である原因・結果の概念とともに捨てなければ、高次元で為されていることにアプローチすることはできないと、ぼくはかなり前から思っているので、ここにそのことを記しておくのである。   

 

 

これは大事だから覚え書きするのである。

 

 

 

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