これは重要なことだから、みなに呈示しておく。この現象方程式はどういうものであるか、構想できる者はいるであろうか。こういうことが可能であるためには、世界のどういう構造設定が必要であるか。
根本志向はともかく、ぼくは日常表層的次元では、意識的である分、きわめて気まぐれで、ぼくの実際行動のタイミングを予測することは、どんなコンピューターシステムをもってしてもまず不可能であることを確信している。ところが問題の集合容喙現象は、寸時の誤差もなく、ぼくの実際行動のタイミングはもちろん、その瞬間のぼくの内面の想念まで、ぴたりと予測して準備され、起こされるのだ。だから、この場合、計算的・機械的な予測ではないだろう、予測という観念自体が不適当な仕組みで、現象は起きるだろう、と ぼくは思っている。どうしたって共時的な現象が起きるように設定されているのだ。無論、偶然の一致などで納得するものではない夥しい現象経験から、ぼくはこの問いと思惟に導かれている。ローテクな打ち合わせによる仕掛けなど、限界が知れている。瞬間的な読心術と透視術を、小学生児童たちにまで集団的に習熟させて配置させておくか、彼らを完全にリモートコントロールできるようにしておかないと、ぼくの経験したような現象は起きない。ぼくの行為とその意味のみならず、ぼくが自分の行為の最中にうっかり失敗したこと、つまりぼくにとっても計算外のことまで、精確に機械が予測するなどということは不可能である。その不可能なことを、外にいる児童たちにまで、どういう力がやらせているのか。おそらくぼくが彼らを間近に確かめたら、彼らはまったく別のことで騒いでいるのかもしれない。それでも、その騒ぎにおいて彼らが発している言葉や調子は、そのタイミングとともに、精確に、ぼくのまったく個人的な、直接の目撃者としてはぼく自身しかいない行動と想念と偶然の不手際との、符合現象となっているのであり、符合現象となるように設定している或る力があるのである。これはぼくの意識過剰でも何でもない。一度や二度なら不思議に思いつつ偶然の一致でぼくも済ますだろうが、あまりに頻繁なので、もうすっかり慣れっこになってしまい、これがいまのぼくの住む世界の普通の有りさまだと思って、もはや驚きもしなくなっているところのものなのである。(例として児童たちのことを言ったが、勿論、「道具」となっているのは彼らだけではない。現象の特徴がよくわかる例として言った。)
この宇宙に在るということがどういうことか、根本的に反省する機縁に、集合容喙現象の経験はなっている。 形而上的問いと、形而下的追及とを、同時にわれわれに課している。