スピリチュアリストが最近さかんに、〈自分を受け入れる〉〈自分を肯定する〉ことが大事だと主張している。その具体的な内面的行為を主張者自身は、かなりよく分かっているようにもみえるのだが、これはじつは実存哲学でさんざん反省され論じられ実践されていることなのだ。そういう厚みの部分を知らないで、スピリチュアリストが今になって、その大衆普及的な図式のところだけ後追いしているのだが、その主張に接して、本来の意図をしっかり自己欺瞞なく実現できる者が、何人もいるとは思えない。かえって、他者には迷惑で浅薄な開き直りの未熟者を大量生産しているのが現実ではないか。自ら孤独に自己を観察吟味する生をほんとうに生きるが何人いるか。もともと哲学的に生きている者が、巷でも似たようなことに想到するようになったのかなあ、とささやかに確認するくらいのことが、まともな反応の山だろう。 ああいう主張の仕方だけでは、とてもその実質的な厚みの領域(どれだけのことを人間はしなければならないか)には、目覚めないだろう。目覚めたつもりになるのと、ほんとうに目覚める過程に入るのとは、違う。とくに神がどのように真剣な問いと探求の課題となるかという点からみて、主張者そのものの人格がどうもあやしい。どのくらい善意であるかということは別問題だ。
教説ではなく、哲学的に生きることが、どのくらい地に足の着いた仕方でできているか。日本人は殆ど不合格なはずだ。 しかしそれなくして、他に迷惑でない自己肯定など、できないのだ。