『何をなすべく彼は生まれついていたのか。自分の生活を刻一刻記録するためにである。・・・ そこに書き留められた思想とは、高度な読書力と要求の多い良心を豊かに兼備した精神が紡ぎだした思想に他ならなかった。』

『彼はどのような主題に対しても真剣な態度で臨んだので、はじめのうちはみんなをびっくりさせたが、その驚きは次第に感動へと変わっていった。・・・ 彼は一言ごとに自らの人生を賭けていた。彼が語るのを聞いていると、「全霊をあげて真理のもとへ赴かねばならない」というプラトンの言葉がいつでも思い浮かんでくるのだった。・・・ 彼ほど全心身の注意力を集中できる人を私は知らない。彼の傍にいると、我々のだれもが自分を許し難いまでに軽薄だと感じたものである。・・・ 彼は、アランに次いで、私を大きく変貌させた最初の友人であった。彼と同様に私も思想を生きるということの必要性を実感していたところであり、その点でも彼は私に力をかしてくれた。・・・ 私は、シャルリの教養のみならずその気高い気品に心酔すると同時に、かくも偉大な精神がその聞き手を持っていないことに憤りをおぼえていた。』 

『彼は講義を開始するにあたり先ず二、三ページにも及ぶ引用を行い、その後それを注釈していくというやり方を好んでいた。・・・ ニュアンスの趣味と言葉の選択を押し進め、ついには洗練のきわみとでも言うべき完璧な状態に到達していった。彼にあっては言葉の創意と思考の創意が同時に実現されるので、接ぎあともずれもない驚異的な言葉と思考の融合が可能になった。人間は、大多数の人間はあまりに軽佻浮薄なので、真面目な話を聞くと面食らってしまう。彼のあまりに人間的な弱点が安心感を与えるというのでなかったならば、シャルル・デュ・ボスの談話と思考の要求する絶えざる緊張感は、仲間や聴衆たちを疲労させてしまったことであろう。』

『我々が自分を究極のところまで押しやって生きることを彼は要求し、彼自身その模範を示してくれるのであった。』

 アンドレ・モーロワ 

 

 いつの時代も変わらないものだ。 

 

洗練とは、気取りとは無縁な、自分を究極のところまで押しやることによって生まれる形であり、その内的な力なくしてはけっして遂げられない。 

 

 

デュ・ボス自身の言葉:

《私が出会った、そして私が生きていく上で援助の手を差し伸べてくれたすべての美しい言葉、すべての本質的な思想を、可能な限り広く普及させることこそ私の務めそのものである》。

《私のこれまでの個人的な経験から、ひとりの人間が、自分の声そのものになりきっている力(長所)と弱さ(短所)のあの言うに言われぬアマルガムをさらけだし、ごく誠実に自分自身になりきれば、それだけそのひとは私に多くのものを与え私をゆたかにしてくれるし、また私のほうも彼との親密な人間関係を築きあげていく可能性が高まるということが、明らかになってきた》。

《私には他人は必要ではないが、他人が私を必要としているということが必要なのだ》。

 

 

 


テーマ:
 

シャルル・デュ・ボス
Charles Du Bos


「1882.10.27 - 1939.8.5
フランスの批評家。
パリ生まれ。
オックスフォード大学に学び、ヨーロッパ的な深い教養を身につけており、好きな作家を好きなように論じた。作品、作家の内面を形成する深層まで追求し、運命の諸相を明るみ引き出し、音楽、絵画の見方を巧みに用い、対象の世界を再現させていた。著書に「近似値」7巻(1922〜37年)などがあるが、批評の覚え書きのために口述筆記させた「日記21〜39」9巻(’46〜61年)に彼の文学観、人生観がうかがわれる。死後に評価が高まり、20世紀最大の批評家の一人に数えられている。」





 

 
 
高田博厚「分水嶺」巻頭に掲げられたデュ・ボスの言葉




 

 

デュ・ボスの代表作「近似値」

帯裏文章

 

 

 

 

  

 

 暗記してよい文章である。


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『私も、「シャルリ【(友人たちは彼〔シャルル・デュ・ボス〕のことをこう呼んでいた)】、あなたは身も心もボッチチェルリを具現している」 とたびたび彼に言った・・・ ボッチチェルリは、シャルリと同様、読書を好み、虚弱な体質だった。二人とも、人生半ばにして、知的感覚主義から感動的な信仰へと転身していった。』
――アンドレ・モーロワ(同書「シャルル・デュ・ボス」より)――

モーロワはさらにデュ・ボスのことを、「気高く気難しく」、「ありとあらゆる人間のなかで考えうる限り非実際的であった彼」 と書いている。
『では、何をなすべく彼は生まれついていたのか。自分の生活を刻一刻記録するためにである。・・・ そこに書き留められた思想とは、高度な読書力と要求の多い良心を豊かに兼備した精神が紡ぎだした思想に他ならなかった』。

『 一九二二年に彼は新たなはけ口を見出す。それはポール・デジャルダンが夏ごとに、ジッド、ヴァレリー、マルタン・デュ・ガール、シュランベルジェ、モーリヤック、フェルナンデス、ジャルー、リットン・ストラッチ、クルティウスといった作家たちを招集していたポンチニーの談話会である。私がはじめてシャルリに出会ったのもその会合においてであった。・・・ 著名な人物が多数参加していたにもかかわらず、すぐさまシャルル・デュ・ボスこそ最も注目すべき人物であると私には思われた。彼はどのような主題に対しても真剣な態度で臨んだので、はじめのうちはみんなをびっくりさせたが、その驚きは次第に感動へと変わっていった。ヴァレリーは逆説をもて遊び、ジッドは〈悪魔〉の弁護人を自認していた。シャルリはというと、彼は一言ごとに自らの人生を賭けていた。彼が語るのを聞いていると、「全霊をあげて真理のもとへ赴かねばならない」というプラトンの言葉がいつでも思い浮かんでくるのだった。・・・
 彼ほど全心身の注意力を集中できる人を私は知らない。彼の傍にいると、我々のだれもが自分を許し難いまでに軽薄だと感じたものである。・・・ 彼は、アランに次いで、私を大きく変貌させた最初の友人であったと言うこともできるであろう。彼と同様に私も思想を生きるということの必要性を実感していたところであり、その点でも彼は私に力をかしてくれた。・・・
 ポンチニーから帰ってきた私は、シャルリの教養のみならずその気高い気品に心酔すると同時に、かくも偉大な精神がその聞き手を持っていないことに憤りをおぼえていた。・・・』



『私には彼の癖まで好ましいものになっていた。彼は講義を開始するにあたり先ず二、三ページにも及ぶ引用を行い、その後それを注釈していくというやり方を好んでいた。・・・ ニュアンスの趣味と言葉の選択を押し進め、ついには洗練のきわみとでも言うべき完璧な状態に到達していった。彼にあっては言葉の創意と思考の創意が同時に実現されるので、接ぎあともずれもない驚異的な言葉と思考の融合が可能になった。人間は、大多数の人間はあまりに軽佻浮薄なので、真面目な話を聞くと面食らってしまう。彼のあまりに人間的な弱点が安心感を与えるというのでなかったならば、シャルル・デュ・ボスの談話と思考の要求する絶えざる緊張感は、仲間や聴衆たちを疲労させてしまったことであろう。』

『シャルリは上着の内ポケットのなかに見事に削った鉛筆を何十本も入れていた。ポンチニーのクマシデの並木道を本を手にして歩み、先端のよく尖った鉛筆でページいっぱいにゆっくりとアンダーラインを引いている彼の姿がよく見受けられた。』

『我々が自分を究極のところまで押しやって生きることを彼は要求し、彼自身その模範を示してくれるのであった。』


デュ・ボス自身の言葉:

《私が出会った、そして私が生きていく上で援助の手を差し伸べてくれたすべての美しい言葉、すべての本質的な思想を、可能な限り広く普及させることこそ私の務めそのものである》。

《私のこれまでの個人的な経験から、ひとりの人間が、自分の声そのものになりきっている力(長所)と弱さ(短所)のあの言うに言われぬアマルガムをさらけだし、ごく誠実に自分自身になりきれば、それだけそのひとは私に多くのものを与え私をゆたかにしてくれるし、また私のほうも彼との親密な人間関係を築きあげていく可能性が高まるということが、明らかになってきた》。

《私には他人は必要ではないが、他人が私を必要としているということが必要なのだ》。




洗練とは、気取りとは無縁な、自分を究極のところまで押しやることによって生まれる形であり、その内的な力なくしてはけっして遂げられない。




備考
「われわれの持っている天性で、徳となりえない欠点はなく、欠点となりえない徳もない。」
  ゲーテ