三年いじょう前のものを読み返すと、いまのスピリチュアリストは、ぼくの思想を、一面的ながら後追いしていることがわかる。



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愛の告白があるように怒りの告白があってよいのである。大事なのはそれがイデー(思想)へ結晶すること。そのとき精神は情念を活かしつつ支配する。じじつ、人間においては思想でないような感情はない。気分は動物も持つ。思想と芸術における感情の役割 意味の大きさは異論の余地はない。むしろ感情を惹起すること 表現することに本質があるとも言える。その際の〈感情〉をよくかんがえてみなければならない。〈観念〉と同質だろう。「思想のない芸術はない」(先生)とはそういうことである。思想を抱いて人間は生きる、ということは感情を抱くことである。感情のない思想はなく、あったら「人間」の思想ではない、そもそも思想ですらなく、唯の計算方式だろう。思想なるものは、そして感情も、かならず形而上的志向をもつであろう。つまりイデアリスムである。マテリアリストは感情の意味を道具的でなく理解しているならば、ヒューマニストであり本質においてイデアリストである。マルティネがそのようであったと思う。イデオロギー(主義)が問題であるのではないのだ。その根本の人間態度なのである。イデアという究極思想(観念)は純粋感情である。
 イデアリストは調和論者ではない。矛盾と戦闘し、此の世の調和を前提しない。平和は精神の純粋、イデアの域にのみある。ベートーヴェン第九の理念はそういうものである。 スピリチュアリストは予定調和信奉者で、カントによって批判されたグノーシス的世界構成思惟を止めない。イデアリストは存在の悲劇性に敢然と立ち向かうが、スピリチュアリストは怒りも戦いもしない精神手術を自らに施し、怒り戦う者を「進化」の観念で見下すのである。




感情の爆発的表現は周囲にも自分にも意味がある。叫ばなければ他者にはわからない。自分には、感情を爆発させることによって、非本質的なものを余計なものとして断つことができ、自分を純化することができる。
僕の場合、単に我慢してやるべきことをやる状況では全くない。どんな状況でも自分の誇りにかけてやることをやるのは当り前である。しかし我慢は全然状況意味が違う。単なる我慢は最悪の妥協である。


 

 

 

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代表的象徴派詩人の著名な作品を手堅く訳せたことで、ぼくの現在の気持には落着いた穏やかなものがある。これでひとつ此の世に仕事を残せたからである。こういうことは大きい。「もの」によって魂が支えられる。愛もふつふつとしている。魂に目覚めた者は魂から愛する。魂の生む美しいものによって魂を愛する。その本質に信頼する者はけっしてうらぎられない。ぼくはそれを信じている。美が信仰させる。あのように愛を目覚めさせる演奏に出会ったことはしあわせだ。

落着いたら 訳した詩の註釈(思想の)を施すことも試みてみよう。今日も何とはなしに夜を明かした。le 24  9:00
(でもねえ、あの詩、知性のドラマはあっても、愛を感じますかねえ。ヴァレリーは愛から逃げているようですけどね。)