フランスに居てイタリアにもギリシャにも行かなかったから、南フランスが究極の果てのようにぼくには思われている。それでいいのではないかと思う。ぼくのなかでは、現実の南仏も、イデアとしての南仏を実感させる現象であったと感じている。根源的なものの想起。かぎりなく明朗で懐かしいもの。どこそこと指定することのできない、感じているものはむしろぼくのなかのなにものかであるもの。外界に感覚が開かれているままで、じつは感じているものはぼくのなかにある。だから、じぶんの経験した人生とともに、あそこに居なければ、意味はないのだ。そういういみで、究極の場であるのだ。 高田さんもそういうことを言っていたはずだ。
あの感覚を、ぼくの生活場に 降臨させよう。 ぼくが幸福であるためなのだ。 これはすでに「感覚のメタフィジック」の術(わざ)なのだ。 この世にありながら、この世への関わりを休止している。 その幸福を、あそこにいて目覚めさせられたのだ。 幸福な、健全な無為というものがあるのだ。