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 「祈り」

 

この像の清澄さと人間性は 造物主でなくイデアの神への祈りであるからと気づく








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なまじ思想や確信をもっていると余計な判断を他に投げる。

美感覚のみによって生きている者がいちばんよいのである。

〔ただしそのつもりの者でも未浄化な思想や自堕落は常に入りこみうるから、結局、そのひとの本質しか恃むべきものはない。〕





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10.6

さて、ぼくはまだまだ言っておきたいことが山ほどあるのである。事実を言ったらびっくりするようなこともある。しかしすべてはぼくという存在の統一性をそこなわないように述べねばならないので、おのずとそこには抑制がある。ぼくは意識的にも無意識的にも、この欄をぼくの「薔薇窓」のつもりで書いているのだから。

この欄を書いていると外部的にもいろいろ面白い現象がある。しかしそういうものをいちいち書いてもつまらないから黙っているだけだ。この「つまらない」という意識はどうして生じるのか。ぼくだけのことではないのだ。人間は本源的に、価値を志向しているもののようだ。そしてこの価値は、「存在の統一性」ということであるようにぼくは思う。この統一性を損なうような事象が、「つまらない」ものらしい。散漫になることを嫌う、これが「生」の本質であるようだ。これはむろん、外部強制的で画一的な統一のことではない。 現代は、「つまらない」ものだらけになっている。 ひとつの存在が生まれるのに、どのような生成過程が必要かに、想到しない。統一的に存在しているものを、分散的にしか取り上げず評価しない。 世界的な賞も、その時々の〈ランキング〉的関心でしか見なくなった。おそるべきことである。
この「存在の統一性」は無論、個的で内面的なものである。外部的全体性として思惟することは決してできないものである。しかし、いま、日本が、いかなる外部的必要性に迫られてのことであろうとも、外部的全体性にしか眼がゆかなくなっているようにしか思えないことを、ぼくはかなり深く憂慮している。 こう言うと、その筋の方面は、「それは杞憂だ」と かならず応じるだろう。 これにたいし、日本の国体は それを支える原理の自覚を欠いている、と ぼくは繰り返し強調する。 日本国民ひとりびとりに欠けているのである。 それが嘗て人命軽視の戦争の歴史に導いたのではないか。 実際にあのような戦争が再来するか否かの問題ではなく、当時と同質の原理不在意識をぼくは問題にしているのである。この原理不在意識をぼくはいまひじょうに現実的に、この国に感じているのである。 この原理不在意識を、当時、何で埋めていたか。いうまでもあるまい。 現在、それは違ったかたちでもありうるかもしれない。 体質的気質的にも所謂左翼とはまったく相容れない人間であるぼくだからこそこれを言わなければならない義務感のようなものを感じている。
真の愛国心は何にもとづくのか、これをしっかりかんがえなければならない。いま、日本は、そのことなしで進んでいる。







〔原題: "想"・新 想〕