フランスの聖人は じつに人間的であり、人間の意味を知り、生きている。 


 


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聖ベルナールと尊者ピエールは、ともに各々、聖ベネディクト会則に基づく修道院の長であり、前者はクレルヴォーの、後者はクリュニーの、修道院長であった。同じ会則の実践の問題で、既にモレームのロベールが、自らのいたモレームの修道院がこの会則に忠実でないので、シトー会を結成し、このシトー修道院に入ったベルナールは、やがて二五歳でシトー会員として、新しいクレルヴォーの修道院の長に任命されるのである(1115)。他方クリュニーは、当時全盛期の巨大な修道院として、霊的のみならず現世的な力を西欧に現前させていた。そしてモレーム同様、同じベネディクト会則の実践において不実であり、現世におぼれていると、シトー会から批判されていた。これがベルナールとピエールの、各々立ち、立たされていた立場であった。ベルナール自身、クリュニーを痛烈に批判した。しかし、このふたりの長の間には、じつに深く真摯な人間的友情があり、相手を敬愛し合っていた。そして のちに聖人に列せられるベルナールは、じつに生身の人間らしい人物であり、自らの人格的不完全さをさらけ出し反省し告白するような人物であった。ぼくがここで言いたいことは、聖人の概念をいまさらながらに改めるべきだということである。

 

ぼくには、聖人とは、自分の全人間的要素を神の前で謙虚に肯定しきった者のことのように思われる。換言すれば、そういう者にとってしか、「神」は現前せず感得されないのだ。〔アウグスティヌスの例を言うまでもない。〕 「肯定」とはここでは「反省しつつ受け入れる」ことである。自己神格化でも開き直りでもない。神を志向すること(祈り)のなかで自分のすべてを止揚する(神との関係のなかに溶かし込む)ことである。