前に、理解〔認識〕には意味化と脱意味化があると言ったが〔「認識の二面と克己」 4月9日〕、意味を認める理解は、感情的反応にのみ込まれる流れにある。いうまでもなく、意味を認めるから、感情的に反応する。負の意味に感情的に反応するのは、もちろんやめたいが、刹那的には、反応して行動することもやむをえない場合もある。その場合は、事後的に、脱意味化の解釈をして、平静心を回復するのがよい。集合容喙現象経験は、そういうデカルト的心術をずいぶん鍛えてくれた。
意味化も脱意味化も、無論、理解・認識である。すべての理解は、意味の理解であると言える。ただそこに、意味に感情的に反応すべき境と、意味を認めつつも感情的反応を超越する境とがある。後者も脱意味化と言ったのは、脱反応化と訂正したほうがよいかもしれぬが、感情的反応を起こさない認識様態に落ち着かせることを、脱意味化と言ったのである。
〔上の最初に「理解」と書いて、更に「認識の二面」の句を引用する瞬間に、外応が起こり、めずらしく邪魔か、と思ったが、最近の外応は、こちらの不注意も注意してくれるからな、と、留意していたところ、しばらくして、そういうことか、と解った。「認識」と書くところを「理解」と書いていて(意味は同じ)、更に「認識の二面」と引用を続けるのは、気をつけなさいよ、ということらしい。ぼくのすることを、ぼくより正確に把握していて、共時的に、こちらの不備を知らせてくれる。容喙現象が、そういうものになってきているのだ。よく思いを致さなければならない。〕