この大事さは、ぼくが言うまでのこともない。この大事さがわかっている者は、まず自分の情操教育をすべきである。これは己れの内部に祭壇をつくり保つ行為、「神」の探求となる。ここにおいてこそ知性の意識行為が意味をもつ。そのことをずっと言い、探求してきた。「情操」といっても、「自己」という具体的なものを陶冶することなのである。感覚と感情と内的意志があってはじめていとなまれる。それじたいが、「自己の自己自身への行為」であり、「自己の一元化」なのである。それを、高田先生の生と思想を想いつつぼくのこととして思念し行為しているのにほかならない。この路に、愛の伴侶ができたことは、望外の幸せである。ぼくは、すでに修道院という路を探索するのみならず生きている。

 

ぼくは寡黙になってよいのだ。 この世そのものが、修道院という内部空間になっている。この世は、神を想起させるカテドラルなのだ。現実の大聖堂のほうが、その象徴なのである。世界を内部空間と感ずる者の生んだものである。これは創造主の否定であり、主体的内面性の勝利である。これがほんとうの、「自然に学ぶ」という意味である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは57年作の踊り子であるが、先生の代表傑作であるという思いは、時とともに据わったものに、ぼくのなかでなっている。 

〔午後、上に一枚加えた。 幻想的な優美〕