単純なことである。文学は俗物の書くものだからである。清濁併せ吞む者でなければ文学は書けない。人間のいやな部類にまで想像で付き合わなければならない。だから読むだけでもいまわしい。これが、ぼくが本能的に文学を等閑視してきた理由であり、いまでもますますそうである。
そうでない文学があるなら、ぼくはもちろん欲する。歴史上の有名度は基準にならない。じぶんが自然に出会ったものでよい。
世界文学のようなものでも、義務的に読んで濁った世界に落とされるのはほんとうにいやである。
物知りにはかならず俗なところがある。だからぼくは最初から、物知りに気を惹かれたことは一度もない。
ぼくはまったくちがう根源から生きてきたのだ。
検索の画像欄に載っている人物の表情にも、甘いものが多い。俗人のましなもの、といったところか。 世間でやれている者とは、そういうものだろう。
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文学者のなかでは、詩人が必然的に最も純粋である。純粋になれば詩人の言葉しかないから。形式としての詩は問題ではない。
写真なのか絵なのか見分けがつかない、すばらしい風景表紙。