「 四月はおだやかで、霞がかかっていた。銀色の霧の温かい帳(とばり)を通して、緑色の小さな木の葉が白い綿芽を散らし、姿の見えない鳥が、霧に隠れた太陽に向ってさえずっていた。オリヴィエは思い出の紡錘(つむ)を繰っていた。子供になって、汽車に乗っている。故郷の小さな町から、霧の中を運ばれて行く。・・・ 美しい詩がひとりでに言葉を並べ、歌のような韻律を生む。彼は自分の机の側にいた。手を伸ばせば、ペンが取れ、その詩的な幻を書き止められる。が意力がなかった。物憂い。自分の夢の香りが、それを見定めようとすると消え失せてしまうのを、彼は知っている。いつもそうだった。自身の最上のものを表現できなかった。彼の精神は花が咲き乱れた谷なのだが、誰もそこに踏み込めない。花は摘むとしおれてしまう。かろうじてニ、三輪、か弱い新しい花が、物憂げに生きのび、ニ、三の詩が、かぐわしい臨終の息を吐いている。この芸術上の無力さが、長いあいだオリヴィエの最大の悩みであった。おのれの中に満ちる生命を感じながら、助けられない!……今では、彼は諦めている。花は、人に見られなくても咲く。人の手に摘まれない、野にあるときがいちばん美しい。太陽に向って夢見る、花の野こそ幸いなれ!――太陽はほとんど照っていなかった。けれども、オリヴィエの夢は、いよいよ花咲いていった。悲しい話、優しい話、おかしい話の数々を、この日頃、彼は自分に話した。どこから来るのか、夏空の白い雲のように、漂い、大気の中に消えて行き、また他の雲が来る。いっぱいの雲である。ときどき、空が空(から)になる。光の中で彼はうっとりしている。するとまた、夢の静かな船が、帆を張って、すべり出て来る。
・・・ 話の途中でクリストフがやって来て、その話の美しさに打たれ、オリヴィエに、はじめからやり直せと頼んだ。けれどもオリヴィエは断った。
「君と同じだよ。もう忘れてしまった」
「嘘をつけ」 クリストフは言う。「君は、君は自分の言うこと、することを、いつだって承知しているフランス野郎じゃないか。なんだって忘れやしない」 」
『ジャン・クリストフ』第九巻