「クリストフ」第八巻まで読んで、ロマン・ロランの人間叙述に、そうだ、そうだ、と思うほど、ぼくはいままでいかに「つまらない」人間としか遭遇しなかったのだろうと、理性的にではあるが、腹立たしくなる。遭遇したもっとも善良な者たちでも、「つまらない」、つまり最低合格点をつけられない。ぼくの水準に合う人間たちが、この世でほとんどいなくなっているのである。人はその人の水準に見合う人間と縁をもつという仮想法則は、ぼくの前では破れ去る。その彼らの言うことははなしにもならない。この意味で、ロマン・ロラン自身が、ぼくにとって大事な友であることを見いだした。ロランの人間理解は、ぼくの水準だからである。誇ることではない。これが当たり前で基準なのだ。 

 

もっと早くロランのこの人間理解を知っていたら、人生の支えになっていただろう、とは ぼくは言わない。 ロランも同意するであろうように、彼を基準と見做すほどの者は、彼を知らなくとも、自分を自分で支えてきた者だ。だからことさら出会う必要もなかった。かえってその孤独で鍛えられて、いまロランを友として見いだしたのだ。   

 

 

 

 

「夢の祝福すべき力、生の創造する想像力よ! 生……生とはなんだろう? それは、冷たい理性やわれわれの目に見えるものではない。生とは、われわれがそれを夢見ることである。生を測る規準は愛である。」 

「幸、不幸は、信仰の有る無しでも、また子供の有る無しでもない。幸福とは魂の香り、歌う心の諧音なのだ。」 

     『ジャン・クリストフ』第八巻終頁