自分の思う通りに事を運ばせようとすること。さまざまな小〈大義名分〉のもとに。家庭内の日常でそれはなされている。自分のことしかかんがえていないのは様子をみればわかる。調子のいいことだ。生活そのものがそれを強いているとも言える。「夢想」の時を欠いている者はすべてそれに掛かる。自己正当化を通さないだけでも知恵者だ。 

 

 

 

 

「忖度」という言葉が去年あたりから流行語のようになっているという。ぼくが流行らせた覚えはない。 「教養」とは、ひとことで言えば「忖度心」だ。 物語を読むのも、人間知を得るというよりも、人の心を忖度する「想像力」を涵養するためである。 

 

 

 

ぼくの思想以前だから「vie」に入れる。 大事でないということではない。  

 

 

 

 

ノート: 

『正教にとって聖愚者の行為は自発的な殉教であり、高潔さを隠す一種の仮面と捉えられていた。 聖愚者は正教の考えでは行者とされている。 厳しい、挑むような形で聖愚者らは人間の品行の悪さを暴き、形式や約束事には一切目もくれなかった。 それどころか、礼節を軽視するという態度は聖愚者の一種の性格といえる。』 (検索文より)

 

偶々読んだので記した。ロシア(の人間意識)は一筋縄ではいかないことがうかがえる。こういう聖愚者の性格をぼくは好かない(求道者にありがちな独り善がりな言動を正当化するからだ)が、ぼくのなかに、知的に洗練された、それに相応するイロニーの態度と実践のあることを見いだす(そのかぎりでは、自己肯定の安堵感がある)。