純粋な者がいちばん強い。屈することをしない。狂気からでも世間知らずからでもない。違う秩序に生きているからだ。明晰な意志をもって屈さない。
これを言うのは、ぼく自身のことを思いつつ、瞬時にほかの偉人たちのことに想到しつつ、言っているのである :
ロマン・ロランでもヤスパースでもそうである。その内的静謐を知った上での(たえずその静謐に立ちかえりながらの)不屈の闘争性という 純粋さにおいて、この二人は比較思想ができるほどである。
ぼくにとってヤスパースは、高田博厚にとってロマン・ロランがそうであったところのものである。
ぼくもそういう純粋さを生きてきた。 そのかぎりでぼくの生には 種も仕掛けも無いのだ。
純粋とは明晰な神秘である
ぼくは、ヤスパースにもロマン・ロランにも、共感とともに違和感をおぼえているのは事実であり、二人に関するその違和感は同質のもののようである。これは 人間が「生」そのものになりきろうとするときに「意識」に感ずる違和感であり、意識の闘争性そのものに耽溺する倒錯に陥らないかぎり、必然的で健全なものであろう。彼ら自身、その感覚は根本意識においてあったと断定できる。自分自身との闘争でもあったのである。だから、ヤスパース主義者やロマン・ロラン主義者というものがあるとすれば、それは偽物なのである。 高田博厚の、「師」への共鳴と問いの態度は立派だった。 ヤスパースもロマン・ロランも、敢えて言うことができるとするならば、ベートーヴェン的な実存を生きた人間なのである。意識を介さねば生が実存にならない人間の誠実さの宿命を、代表して生き貫いてくれた。完成ということではない。ぼくも、高田博厚とともに完成をめざしたい。