信仰とは、目標かつ根源であり、その内容は、魂にとって必要なものはことごとく成就されていることを受け入れることである。 

 

ぼくには「いま ここ」しかない。「いま ここ」で成就されるのはこの信仰のみである。魂についてはじっさいそのとおりなのだ。 

 

なにがぼくをここにみちびいたかというと、「なにかあたたかいもの」のながれるのをきみとの間に感じたからなのだ。このなかにぼくのもとめるすべてがある。 きみもまたそれを拠りどころとして演奏していることを知っている。 「きみを感じる」ということはそのことなのだ。 

 

 

ぼくが思っているとき ぼくもまた思われている   

 

 

 

 

 

 

 

魂は無限であるということは、神秘であるということ、けっして知り尽くされることのない秘密を蔵しているということであり、それゆえにこそ愛され信仰される(このふたつは同じことである)。この秘密は光であるような闇である。神秘がそうであるように。すべての知の溢れる源であり、尽きぬがゆえに光であり神秘である       

 

この「敬虔」を会得しないのは悉く高慢であり悪魔である。魂への無礼であり、真の知(知とともにある充実した無知)に至らないことである 

 

 

魂が歴史性を有していることで有限であるならば、それは神秘の無限を蔵し その光に照らされている有限であり、その光のなかに浸透しているような具体的知の領域である