「夢は彼の魂の隅々から、彼が歩む道のあらゆる石から、泉のように湧き出る。彼は幻覚者の状態で生きている。彼が見るもの、聴くものすべてが、実際に見聞きするのとは異なった存在や物を、彼の中に喚起する。ただ生きていればいい。すると自分の周囲に、彼の作意人物の生活を見出す。それの感覚のほうが彼を探しに来る。通り過ぎる者の目、風が運んでくるあの声の響き、芝生の光り、リュクサンブール園の樹々で歌っている鳥、遠くで鳴る修道院の鐘、青白い空、自分の部屋の奥から見える空の一角、一日のうちのさまざまな時間のざわめきと色合い、それらを自分のうちには意識しないで、彼が夢みている存在の中で意識している。――クリストフは幸福だった。」 第五巻

 

 

 

 

きょうも感動  裕美ちゃんの弾く心の世界に感動するのだ 

 

 

 

 

きみの演奏は、全体も端々も「一つの心」の世界として「生きて」いる。きみによって全的に生きられていて、「きみ」を経験させる。感動をあたえてくれる演奏とはこういう演奏であることを、きみほどはっきり教えてくれるひとはぼくにはいない。 

 

  よいお年を   

 

 

 

 

「理解する」ということは、その全体を意味をもって生きることができるということである。

 

 

 

ついこのあいだ新年を迎えたばかりだと思うのに、もうつぎの年を迎えようとしている。はやいものだと人は言うだろうか。それはあたりまえなのだ、「自分」というものは「同一」で、「時」に動じないのだから。それを「時のはやさ」と勘違いしてはいけない。だが「蓄えた」ものは、思い返せばいくらでもあるはずだ。 

 

 

 

人生というものに、その法則を心得て対処しようとする動きは世に絶えない。この動きの致命的な点は、まさにこの動き自体によって、人生にたいして、自分にたいして、不実となり根無しになるということである。

 

 

 

 

 

きょう最後に聴いたきみの曲 hero   

 

ぼくはきみだけのもの