集合的容喙現象は、一般的な諸類型を見いだせるものであると同時に、向こうは、その諸類型を各々の被害者に応じて異なる比率で組み合わせて仕掛けてくるので、各々の対応の仕方はそれぞれ異なってくるのがむしろ当然、ということを、基本的な了解事項としておくべきと思います。 ぼくも、自分の経験からはこういうことが言える、と語れるのみです。 そのなかには、他の被害者にとっても参考となることもあるでしょう。 そういう意味合いで言うと、自らは加担者ではないのに、魔の共時性によって結果的に「被害者」に苦痛を与えている人々から、魔に霊魂的に憑依されて別人格になって意図をもって被害者を苦しめる人々まで、加担の在りようの幅というものがあることを、ぼくは経験しています。だから、たんなる人間間の申し合わせによって為されているように一見映る加害行為でも、たしかに「申し合わせ」で為されているのも事実であるとしても、同時に、「魔の共時性」や、「魔の憑依」も、そこには混在して働いているのではないか、と、ぼくとしては推測します(高度テクノロジーの要素もぼくは自分の経験から肯定したいのですが、それでも高度機械技術のみであそこまで現象を起こせるのかと、思う面もあるからです)。つまり、このいみでの「形而上的」な要素をも、「地上的・形而下的」動因とともに、想定してかかるのが、ぼくの、現象にたいする基本的な姿勢です。そのうえで、地上的動因、つまり「申し合わせ」や「指令」で動いている人々を洗い出し、法的に取り締まる方向へ持ってゆこう、というのが、ぼくの立場です。 

 

 さて、人間として嘆かわしいことに、ふつうだったら人間としてこういうことはしないだろう、と思うことを、「加担者」がすることは、ぼくの経験からも言えます。その際、本質的に嘆かわしいことは、加担者は多かれ少なかれ魔に憑依された面をもつということ、このことは、ぼくの経験と観察におけるかぎりでは、断定しなければならないことです。あきらかに、このいみでの人心操作(マインドコントロール)は、なされています。本人の意志のみでできることを、あきらかに超えていることを加担者はしています。なぜなら、この無意味な嘆かわしい加担行為を、じぶんの命よりも優先してなしているからです。これはふつうの意志のみではできないことです。洗脳されている者は、ほんとうにじぶんの死まで、加担行為をつづけます。じぶんの歴史も名誉も投げ捨てています。どうしようもない加担者は、ほんとうにそうなっている。 ぼくも語りたくないこの事実を、報告の義務として、公表しておきます。とんでもないロボット化が、事実起きていること、人間が人間をやめるところまでゆくということを。 そのつもりで対処することが大事です。 

 

 

 

 

 

それから、ぼく個人の一般的態度は、なにより自分の魂を大事にすることを軸に回っていることを、ここで簡潔に表明しておきます。 

 

 

 

今年は、大学の先生方、哲学研究の方々に、集合容喙現象の話を、研究発表の枠で初めてしましたが、否定せず聞き それなりに真面目に受けとめてくださいました。話したのが ぼくだからということもあります(これは大きなことです)が、なんらかの問題提起を、この分野ではじめて理性的にできたのではないかと思います。この問題を哲学的話題に組み込むということは、ぼくだからできたことですが、話すこと自体には、反響を気にしたからではなく、内容そのもののために、かなりのストレスがありました。やはりぼくは自分の充実のためには純粋哲学を話すほうがよいとあらためて思いました。国には もちろん動いてもらうつもりです。 

 

 すこし尊大に思われる述べ方をしたかもしれませんが、そういうことを気に懸けて、述べてもよいことを控える次元の話では、これはありません。