言葉にはもともと無理した人工的な本性があって、分けられないものを分けることで成立している。それを承知で作業しているが、とても「自然に倣う」といったものではない。観念世界を構築しているのであり、もちろんそれによって現実世界が見通せてくるところはある。しかしそれは、きわめて社会的な現象の解析に限られているように思われる。つまり、言葉というものがもともとそのためにある「生活」の現象は、言葉による分析の領域としてきわめて適している、と思われる。 

 しかし「生活」を一歩踏み越えて「存在の実相」に迫りそれを表現しようとすると、とたんに言葉は無理をした観念遊戯をしだす。この領域では言葉は適した解析手段ではないのだ。文学や哲学は、そこで言葉を器具とする苦渋を知っている。ほんとうに知っているのは、造形芸術だろう。言葉で語れるものの「限界」から、探求と創造が始まっている。

 ぼくも、じぶんの行動を他に説明する気はほとんどなくなっている。