2015. 6. 9
805節「失念の克服」が 〈評価〉はあまりつかないが すごく読まれている。こういう特徴がいちばんぼくらしい。
彼女の五つめの作品の二曲めで 〈波のいのち〉を彼女がどう創造しているかを できれば自ら作品を得て良い再生機で心を無にして集中して聴いてみてほしい。その創造のこころはすべての曲演奏に浸透しているが、この曲で聴者は如実にそのことに、彼女の魂に気づき目覚めるだろう。こんな心根の深く賢明で優しいひとはいないのだ。https://youtu.be/xy1gpcaeLoU (*)
〔彼女の曲演奏を集中して聴くとぼくが言うのは、彼女の音楽に身を委ねることだ。すべての意図的志向を忘れ、横になって眼をつぶり、自分を放棄して聴く。するとどんなに力んで集中しようとしても却ってできないいろんな知覚や感覚が気づかれてくる。その永遠にみずみずしい彼女の世界の経験のなかから自分が再生してくる。〕
彼女とぼく自身のためなら ぼくは憎まれてよい。これがぼくの誠実さの限界であり 忠実の証である。
きみの様子をみているとね、きみがどれだけ自分の「仕事」で努力し苦労しているかが察せられる。それはぼくもまた自分の「仕事」で身をすりへらす思いをずっとしてきたから、同様なことをしているひとの意識のありようは、表情の様子を眺めていると直感的に察して共感(同情)することができると感想する(思う)、ということなのだ。これはまちがいないと思っている。真実な感情と、それを形としても構成しようとする妥協なき意志との、この二つの対決、それは熾烈なものであることをぼくはよく自分の内で知りぬいている、生きぬいている。きみは充分に休息をとり心を楽しませる権利があるのだよ。そういうことをまったく想像もできない連中をもちろん きみもぼくも完全に放っておくことを知っている。きょうは(いま)そういうことを馴染みのきみの表情をみながら ふととても親密に実感した。気遣いたい気持があふれてきて書いた。自分をいたわって
___
(*)'17.11.10