人間の選択行為と言われているものは、自由として意識されていると同時に、他の現象(物理的現象から他者の選択行為までをふくむ)と共時的である。 

 

自由と共時性の連結の問題は、われわれの理解を超えている。 説明できる人がいればその説明をお聞きしたいが、その場合も、われわれが現象世界を説明するのと同じ概念や範疇(カテゴリー)をもって説明することになろうから、難しいだろう。 この点をカントの純粋理性批判は注意している。 それでも、ベルクソン的なものでもよいから、「直観」的理解に迫りたい。 

 

 

集合容喙被害者は、周囲が自分に合わせていると思いがちだが、周囲からすれば被害者のほうが合わせていると見えるかもしれない。誰でも、自分の自由しか内面的に感知することはできず(自由の意識はそういう内的なものである)、自分の視点からは、外部の者はみな機械人形のように動いていると見做そうとすれば見做せるのである。 被害者の「つきまとわれ」意識(ぼく自身も経験している)が妄想だと言っているのではなく、この「つきまとい」の「からくり」には、人為に超現象的要素が加わっている、というぼくの感じを言いたいのだ。