論文執筆のため、センシティヴになっています。この欄はしばらく休暇ですね。 

 

 

ぼくはもう論文を書くような生の状態ではなくなっている。論文としての思想ではなく、生そのものである思想をもとめ生きている。 

 

 

論文より、この欄を書いているのがほんとうのぼくなのだ。 どのくらいの読者がいるかは関係ない。

 

 

人間は、思想をもつために生きているという気持がある。思想をもつことによって人間は落着く。思想は時空を超えているからだ。そういう思想を人間はもとうとする。思想はただの知ではない。感覚と信仰とより成る。 ―― けっきょくそれを自覚して、ギリシャ人も「イデア」を言ったのだという確認をぼくはここでしたらしい。― 

 

 

苦しみを知って心の目が開ける。 苦しみもまた感覚である。 

 

 

じぶんの達した思想から 命じられるようになる。それにそぐわないことは憂鬱になる。気紛れからではない。 

 

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17日 ”証言「ああいうひとは他にいません」|自著の構造|「完璧な人」”〔欧州の学問態度〕 より:
 
高田先生の奥様 常夫人と電話でお話ししたことを以前書いた。先生の著書複写の承諾を得る要件の折りだったが、その時 将来先生についての本を書くつもりであることをぼくは言った。ドイツへ行きフランスで博士号をとり帰国して大学で講師をつとめそして先生の本を出版した。ぼくはやると言ったことはやった。電話で夫人は生前の先生のことについて語ってくださった。内容については既に書いたつもりだ。「ほんとうに深くてゆたかな宗教性を持っていたひとでした。ああゆうひと他にいませんよ。わたしの夫だなんて思っていません。」とそこまで言われた。ぼくが本と作品から感じたままのことを証言された。先生のことを崇拝しておられた。いちばん先生の身近にいてその現実を四六時中経験しておられてこういうことを告白される。ぼくはこの夫人の告白を自分の内的経験と一致する「証言」として信じておればいいのだ。
 
 
フランスは学問にたいする人間態度が 生活のなかの精神の営みとして生活に溶け込んでいる。それがぼくの欧州で学んだことである。この態度でぼくも純粋に学問しようと思った。いまでもそう思っている。人間生活の土台がしっかりしており、その上で学問をしている。文化と精神と学問が離れていない。堅実な精神作業の集積が、地味だが根本的な意味のある成果を築いている。フランス人の学問・文化の専門家とは直に語りたいとぼくは思う。

 


読者はぼくのメーヌ・ド・ビラン勉強跡をご覧になったとおもうが、ぼくは高田先生のルオー論を主内容とする自著で(も)、あの勉強の仕方―それがぼくにとって「読む」ということなのだが―を実践したのである。先生の文章を徹底的に読み込む。その読んでびっしり書き込んだ「理解」が、自著のぼくの文章なのである。結果、先生の原文引用とぼくの文とが交互に繰り出される構造となっている。
 
 
説明的になるのではなく、独白的になるのでなくては、深い思想は生れない。ひじょうによくそれを感ずる。ヤスパースは、「交わりを実現するに応じて(それは)真理である」と言ったが、ここに逆説がある。ヤスパース自身の孤独論に(も)現れているように、孤独の深さに応じて「交わり的真理」も深さを得るのである。これが「沈黙」の意味である。
 

最近の節 〔自節紹介〕 ・〔自節紹介〕続 ・ 再 vues 794 補遺 -articulation et confirmation- ・ *「構成」:内的必然性の自由の証言(親密の秩序) の中などで今後の展開のために本質的なことを言っている。  ヤスパースの「絶対的意識」 -absolutes Bewusstsein- の意味の重要性に、いまのぼくの本来の課題との関連において気づいたのは収穫だった〔これについてはそのうち触れることがある〕。高田博厚の根本思想との関連において読み込むことである。
 
 
本物であればそのひとの本質は一生変わらない
 〔先生のこの思想の内実がわかるようになってきた。これがアランの言う「自己の連続(同一性)を見出す」ということなのだ。すなわち、本物であることは純粋であることなのだ。純粋は、意志的知性の発露である。〕