努力しただけ意味に満ちていたぼくの人生は、人為的薬害によって断ち切られ、加害側から侮りまで受け、無意味さを刷り込まされた。この不自然加害の原因者は、人間であれ悪魔であれ必ず存在する。しかもこの原因者は、ぼくの全親族をぼくの敵に回らせるという演出を、遠隔操作的に行った。この根本状況は変わっていないと思う。なぜなら人間関係がまったくみせかけのうわべだけのものに固定されているから。これは他の被害者同様、ぼくの〈かるま〉とは何の関係もない、一方的意図的強制によるものである。こういう勝手な暴力でぼくの丹精込めてきた人生が無にされた。これは創造主レベルの責任であると ぼくは確信している。人間レベルの災禍ではない。しかも人間社会の原因者も必ず存在している。 ここからどう自分を回復させるか、それがいまのぼくの闘いであるのだ。 運のよい人々は、自らの人生の意味という物語・神話を自然の流れでつくることができる。 ぼくはそれを赤裸なかたちで意識的に強行するしかない。それがぼくのいまの人生の意味である。 人間の生の意味はもともとそういうものであるということをぼくはいま知っている。 だがいまのぼくの努力は気慰めではない。存在そのものの次元に、哲学的合法性をもって、ぼくの根源要請を押しつけるつもりなのだ。 ぼくの本質はそういう窮極の強引さである。 

 

 

ぼくもまだマルセルの『形而上学日記』が原著で読める。しかも正常だった頃よりも立て板に水のように意味的に読めるのをふしぎに思っている。

 

これはじつはふしぎではなく、ほんとうの知性は身体とは別な魂の知性であり、この知性はむしろ現在、この欄を書くことによって深化しているからである、と思いたい。