被害者さんの報告をみていると、とくに共時的現象の微妙な意味合いというのは、当事者でないと分からないだろうなあ、と、ぼくも被害者だからこそ、了解するのだが、被害者でない方々の当惑する気持ちもわかる。「偶然ではなく必然だ」という断定が不可避なものから、或るタイミングで主観的に思わせぶりな印象で遠くで船の汽笛が鳴ることまで、自然性と不自然性の境界がじつにあいまいなのが、この現象の特徴だ。健常体の被害者でもこれで感情を左右されるのだから、薬害強制の被害を受けて神経が脆弱になっているぼくにおいては、余計に敏感に感情が左右される。それでも自分の思想を中心にする生活の営みに切り替えてから、そうとう動じなくなった。つまり、本来グレーゾーンである外界の現象のことなど、原則どうでもいいと、感情のほうで相手にしなくなったことによって、環境はずいぶん変わってきたのである。あきらかに、環境のほうで客観的に変わってきたことを、強調しておく。ぼくの主観内のことではないのである。いまの問題はむしろ、変わらないぼくの薬害身体ことだ。納得できないのは、ぼくはとっくに薬は止めているのに、体がもとに戻らないことである。被害者さんのなかでも ぼくのような例はみていない。この薬害のために、薬害が無かった場合よりぼくの感情が相当気難しくなっていることは事実だと思う。内容よりも、少しでもぼくの志向と相いれないイメージが見いだされると、かかわることを拒否してしまう。これはやむをえない精神衛生措置で、了解していただきたい。これは、ぼくを曲解しないために大事なことである。

 

 それにしても、この共時性現象そのものは、相当やっかいな、真相が深く隠された事象であって、単純に一義的に解釈し断定してしまうことはできないものだと、ぼく自身は思っている。いまだに問題を見通せないでいる。現象に興奮していろいろにアピールしまくっていた時期はぼくにとっては過ぎている。もう7年は過ぎているのだ。 この現象についての根本的なぼくの感覚を書こうとしてもなかなかできない。ひとつ言えることは、人間の精神と外界の現象との間には、合理的な割り切りを拒むような何かがあるということだ。ぼくの独断ということでよいが、たとえ人為的加害組織を摘発し撲滅したとしても、この現象は、或いはこの現象の傷痕は、精神と外界との間に残るだろう。やってはならないたいへんなことをしてくれたものだと思っている。自然における核の後遺症と同じことを、霊界レベルで人間はしてしまったのではないか。人間の無分別にはつくづくいやになる。だからぼくはそういうこととは独立した思想の世界に自立的に精神を生かす必要をますます感じるのだ。〔これは逃避ではなく、「人間性」の根源であり砦であるものを護り生かす最も能動的な行為である。〕これがイデアリスムではないか。「神」はこちらにいるのであって、外界に拝むものではない。