初期に書いたものにもぼくが立ち返るべきよい内容がたくさんある。 いまはこれそのままは書かないだろうが、核心は不動だ。 


 


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愛とは相手を「断定」しないことだ。常に相手の「可能性」を信じることだ。この「相手への信仰」は、「自分への信仰」と同様、「人間の理念」を根底にもっている。相手を断定しないこと、相手のなかに「光」を見出そうと注意し期待することは、人間への積極的関係の基本である。ぼくは自分を信じる、そして相手をその可能性において尊重する(だから断定しない)ということは、ぼくのうちにある「人間の理念」に忠実でありたいからなのだ。だから「理念にもとづく愛」というものもあるのだ。「理性的愛」といわれるものはこれでなくてはならない。「愛」という言葉を使うのは、ぼくにはそうとしかよびようがないからなのだが、「友情」の基本でもあるだろう。ぼくはいかなる相手も経験的根拠によって断定したくない。理想主義的な判断保留だ。だからこの意味での不可知論とは実は「理念への意志」が要るものなのだ。これがない懐疑論者は、ぼくのいう不可知論者とは反対で、相手をすぐに断定するのではないだろうか。「信仰なき悟性(単なる分別知性)主義」ほど愛をうらぎるものはない。これが表に出ていた人であったために、ぼくはかつてその人のぼくへの好意を受け入れられなかったことがある。ぼくの人間心性が反発したのだ。ぼくもそれを包めるほど大人でも鈍感でも現実主義でもなかった。ところで、そういう「光」を相手に認めることでは先生は敏感だったようだ。地位貴賎にかかわりなく多くの親密な友情を築けたのもこれによる。前に引用しかけて機械が消失させてしまった先生の逸話(パリの日本人画学生が付合っていた遊女に会いにいった話)でも、核心は、彼女のなかの「光」に気づいて、「きみはよいひとだね」と言ったところで話は終っている。他に何を付加える必要があるだろうか。別のことをぼくが付加えれば、或る精神基準なるものを所持していてそれで〈あなたの精神レベルは低い〉などと相手の正面で言葉に出して断定できる〈スピリチュアリスト〉の御仁等は、この遊女に比べてどのへんのレベルにおはしますのだろうか。地獄に堕ちるが良い。こういう場合にのみぼくも自分の「断定」の義務を思い出す。