名言・箴言などは言葉にすぎず思惟にすぎない。 思惟の次元でどんなに構想しても、どうだというのか。 

 

言葉を構成する努力は、時間の浪費であると実感されて仕方がなくなった。 それは創造じゃない。知識は創造じゃない。

 

 

「大方の」文学と文学好きは、井戸端談議の延長であることを、提供側も享受側も自覚していない。だから人間の品格の向上など、文学だというだけでは、ほんらい望めない。文学の否定ではなく、人間次第だということ。文学自体に人間を深化させる力があれば、多読する者は相当な人物になるはずだが、そういうことはぜったいにない。言葉と思惟自体に、それだけの力はけっしてない。「大方」でないものに期待するのみ。

 言葉の妙をなまじ知っている、品格なき者は、最も魂を深く傷つけ怒らせる、最悪の者となる。そういう者は命を落とさねばならない。生きていることをぼくは許さない。

 

 〔ほんとうに悔い改めている者のみ裁きから免れる。その悔い改めをぼくに知らせることのできない仕方で罪を為した者は、自分のために禍である。そういう者がいるのだ、上品ぶって本性は下劣な者が。ぼくの怒りは男女を区別しない。〕 

 

 

 

 

 

恨みのある人間には、たとえ許すことはできなくとも、幸せを祈る、という態度があるが、これが実行できるのは、自分の体がまだ基本的に健常体である場合である。ぼくの体は、意図的・社会的に仕組まれた薬害によって、基本的・包括的に異常態であるから、健常体の頃鷹揚にしていた過去のことでも、いまはひじょうに容赦しなくなっている。社会への根本的不信と警戒は、未来永劫ぼくから消えることはない。責任医などは、相応の死に方をしろと、一万%本気で意志している。 殺せ

 これこそ健康な意志というものだ  

 

 

 

 

 

歳を重ねれば怒らなくなるというのは大嘘で、俗物になるだけ鈍くなるにすぎない。 ぼくにおいては正反対のことが起こっている。 

 

 

 

不純な者には、恨みというものがどういうものか、そもそも了解することができない。 言葉にすぎない「恨み」というものについて、あれこれ善処法を論じることは、欺瞞の骨頂である。

 

 

 

すべて実存的なものには、一般的対処法を超えるものがある。 

 

そしてぼくはここで、「実存」が言えるのはどういうときであるかを理解する。「純粋」であるときである。      

 

 

 

天神でさえ公正な審判を厳密にしうるとどうして言いうるのか。それは理想の投影のような思い込み信仰である。 まして世間評は無責任の極み。 正気の顔をした狂信者の押しつけは殺せ。  孤独であれ。