ぼくが安曇野豊科美術館にいまだに行っていないのは、それだけ「彫刻との出会い」を大事に思い、一生のこととして、運命にゆだねているからである。そのくらい大事にしているものを、よこからわざわざにじりよってきてけなし、じぶんの断定を権威づくで押しつけようとする、「禅者」というのは、どういうものであろうか。それは、「集団ストーカー」より、もっと悪い行為である。こういう人間の記憶を消すためにはどうしたらよいのか。ぼくには関係ない人間なのだ。なぜ、ぼくの孤独な世界の領域をけがしにはいってくるのか。どうやって人間を否定したらよいのか。そういう人間を、天の神に頼んで、その魂と記憶もろとも消し去ってほしい。
「人間」の敵は人間なのである。ぼくはそういう人間の幸を祈るゆとりはない。端的に、全面的に殺すことしかかんがえない。どんなものがそのほかにその者にあったとしても、ぼくへのこの件だけで、天の神によって滅ぼしてよい。これはもちろん、ぼくがその者の記憶から自由になればよいのだ。そのためには、ものすごく豪華に優雅に生活する必要がある。(ぼくのいうのは、自分の本望を全開にして生ききるということである。)
この禅者だけではない。哲学研究者、美術創作者など、そういう悪質な人間は、ぼくが遭遇した人間のなかにかなりいる。真理と美を探求するのであれば、どうして座興にでも、ひとのこころを不快にするどころか傷をつけて苦しむようにさせるのだろうか。その相手の本来的生が健やかに営まれるように配慮するどころか、その逆を意志的に、無理強いするのだろうか。身体と同じで、あまりに深く傷つけられたこころは、その傷跡に一生苦しめられ、本来の健康なこころをもう生きられないのである。そういう、事故の怪我よりひどいことを、言葉と気持の勢いと意志で、人間はすることができるのである。
人間がそういうものなら、どうやって純粋なひとは、そういう自分の生に関わってはならないのに言葉と念で関わる人間を、自分のなかで「亡き者」にすることができるのだろうか。「亡き者」にせねばならない。
質の悪い他者を自分のなかで抹殺できない者は、けっして純粋な状態に復帰できない。これは、ものすごい内的なエネルギーを出さなければ不可能なことだ。ぼくはそれをやろうと思うのだ。
そういう者が実際に死んでしまえば、影響はかなり消える。ゆえにその禅者にも、(他の無縁な者にも)、死んでほしいと思う。ぼくのために死んで、命を落としてほしい。 そうでなければぼくはけっして納得しない。 魂に傷を負わせた者は、死んで当然であり、殺さねばならない。それによって 魂の傷は著しく癒され、殆ど消える。 当の者がのうのうと生きているかぎり無理である。魂に傷を負わせた者は、命を落とすことしか、他から望まれない。このことを感じないならば、正常ではない。
傷つけられた魂ほど情熱的・根源的に殺人を欲することは、悪人にも国家にもできはしない。 これが真実である。 世は、不純な俗物で殆ど構成されているので、純粋な魂が傷つけられたときの攻撃心と殺意がどれほど強烈で本気で執拗かに、あきれるほど感覚がない。
