「創造主」のあらゆるいかがわしさにもかかわらず、「神」を人間は信じている。その理由は、人間が懺悔するとき、「神を前にしての祈り」が最も純粋に為されているからであり、人間は本性的にそのような懺悔を、自己純化のために欲するものであり、ゆえにそのために神を欲する、つまり信じているからである。 「創造主」を思うときと 「神」の前にあるときとでは、人間はまったくちがう意識にある。
自己の魂の純粋さを いかなるものより欲する者には それがわかる。
キリスト教の懺悔ではない。自己の純粋さを知っているがゆえの、自己らしからぬものを除くための懺悔である。というのは、この世に生きているかぎり、この世で為されている観念形態を不本意に演じてしまうことがあるから。
きょうも食事にきてくれて ありがとう・・・
蜜で元気になっているみたいだね。咲く前は 大丈夫かと思う感じで飛んでいたのに。ほっとしました。
きょうはぼくの樹でおやすみだね
ほんとうにそうみたい ぼくの樹の葉蔭でおやすみしてます
蝶の生きている時間感覚って ぼくらには想像もできない
人間の間でさえ、個人のその時々でさえ どんなに時間はちがって経験されるかを知っている
まして蝶は時間さえ超えて永遠を生きているのかもしれない
蝶のほうが 人間を測る次元に 生きているのかもしれませんよ
裕美ちゃん、これを書いてから きみのインディーズを聴きました
何度聴いたでしょう ぼくの心が鎮まるほどに あたらしい感覚と発見があるのです
そして知るのです どんなにきみが音楽を奥深く創っているかということを きみが神々しい域に生きているかということを