正確に言われない言葉もやはり言葉であって、それ自体自立した力となる。そういう言葉は暴君であって、暴力となる。その責任は、その言葉を発した者がとらなければならない。「兄弟を罵る言葉を発する者は、即座に地獄の火のなかに投げ込まれる」とイエスは言っている。そうであらねばならいとぼくはおもう。ぼくはいつもおもっている、その者が地獄の火に焼かれるのを実際に見たい、と。言葉は正確に適切に妥当に言われねばならない。さらに、愛のない言葉を発してはならない。しかも、これが愛であるという思い込みや信念で発してはならない。これは行為よりもよほど重大なことである。言葉は最大の行為である。できますか、あなたがたに。適確な言葉を常に発するということが。それができないなら黙っているほうが無上によい。黙って行為するほうがよい。沈黙の行為の背後にはそれだけの熟慮がなければならない。ぼくはいつも、念じるだけで無礼な者が死ぬ力がじぶんに生じればよいとおもっている。そしてその死ぬさまをぼくのほうでも霊視できる力が生まれればよいとおもっている。そういう力をきっと得るだろう。 

 

 むろん、行為のなかに現れる言葉も同罪である。