それにしても、禅思想の観念性が、どれほどの人にわかるだろうか。禅は、概念性を超えていても、なお観念性から脱していない。こういうことを言うのは、ぼく自身が、禅の実感・実践次元を、およそ徹底して通ってきているからである。神の観念をも突破したと思っていた。ところがそうではなかったのである。 禅の実感・実践次元そのものが、悟りの次元そのものが、観念的だったのである。 西欧思想は、「神」に窮極する。それは、西欧思想、というより西欧思索が、「もの」を離れては展開しないからである。だから、西欧で最も観念的なドイツ思想(神秘思想も思弁哲学もふくめて)が、日本の禅思想といちばん類縁性があるように解されている。日本の哲学は、その包括的観念性の次元で展開してきたのである。ぼくにとってはあまりに実感としてわかりきったことなので、くわしく触れなかったのではないかと思い、念のためここに記した。 

 

〔「禅思想」と言っても、「禅」そのものに「思想」があるかどうかは疑問である。むしろ、「禅」によって開かれる意識状態を、思想的に反省して哲学体系を構成しようとする態度自体が問題とされねばならないだろう。〕

 

 

ぼくの言説への社会の反応には関心なく、ぼくは自分の路をあゆむ。いつもあの沈黙の修道院への路の風景がぼくを鎮静させ自分を想起させる。