それは、まどろんでいる者を まどろんでいるままにさせない、という使命をぼくが持っているかのような厳しさである。 けっして、本質をごまかした和気あいあいにはさせないのだ。 それはイエスが為したようなことと似ていないことはない。

 

 

ぼくが厳しすぎると言う者は、すべて本質をごまかして和気あいあいとしていたい者たちである。この世のほとんどすべての者たちはそれで生活をいとなんでいる。ぼくもそういう生活営為を応用して周囲とつき合ってはいるが、それは二重の意識の一方を表に出しているのみであり、二重の意識そのものを解消することはぜったいにない。 

 

 

ぼくはむしろ普通いじょうに甘い人間なのである。本質ができているひとには。ぼくは、「甘い」と「厳しい」の両極端をいつも言われてきた(これでぼくの人間の秘密がわからないだろうか)。和気あいあいとするのならぼくはほとんど完璧に演じることができる。しかしぼくがそういう雰囲気にほんとうにとけこむことは ぜったいありえない。意志してそうしないというより、本質的に不可能なのだ。

 

ぼくは、人間に公正にしている。それを解らない者はまだ何も解らない者である。

 

 

ぼくの厳しさは ぼくの「地の塩」である。