決断とは、決して断つことである。それは、愛の集中のため、観念的で単に人間的な好意の引力を断ち、一見非情な境位に敢えて身を置くことである。これは、愛のほうからぼくに教えてくれたのである。だから、これは妄想かもしれない。しかし この妄想かもしれない思いを、ぼくはぼくの愛の路として受け入れようとおもう。なぜなら、この思いは、どこかぼくを納得させるものがあるからである。なるほど愛の忠実とはそういうものかもしれない。これがほんとうの愛の現実であり、この隘路、狭き門を通して、ほんとうの愛の秩序に導かれるような予感をぼくはいだく。中心的な愛は、一見非情なほど専一的で独占的で排他的な態度を決断することを、ぼくに厳格に要求していると、ぼくはぼくの経験を解釈する。この経験解釈は、妄想であるかもしれなくともどこか納得させるものがあるから。そしてこの妄想かもしれない経験解釈はね、きみはぼくをものすごく独占したがっているという、それこそ妄想かもしれない経験解釈を中心にふくんでいるのだ。神が きみにおいてぼくを独占したがっているようにね。あらゆるこの世のものから離れさせられて神に独占されるのでなくては、神のもとめる愛の秩序は開けないのではなかろうか。これもぼくの敷衍解釈だけどね。
それからもうひとつぼくの妄想かもしれない経験解釈を。ぼくが決断すると、そのときから現象も、その決断に即したものに変わっている。もうぼくの自由にならないほどに。これも限定的にしかぼくは言わない。普遍化は禁じる。ぼくの、それはありうる気がするという個人的な経験なのだ。
ぼくは、きみの思いかもしれないものを 受け入れる。
きょうもきみの蝶は来てくれている。