ルソーは集合容喙現象経験の先駆者であり、かつ自らの哲学(信仰)で己れを持ちこたえた先達であるようだ。 「この地上のいかなる人間も遭遇したことのないほどの恐るべき運命に全身を委ねられている自分に気づいた」という彼の告白を、そのままに、その内容の異常さと深刻さに誇張のないものとして、受けとるべきだとぼくは思う。 

ようやく僕が正気づき、自分自身に立ちもどるにおよんで、自分が苦難の用意に蓄えておいた資源の価値を感じるまでには、数年の懊悩を経なければならなかった」という、ここでの彼の告白も、まるでぼくのために用意してくれていた言葉のようだ。ぼく自身がまさにこの通りであったからだ。

 

現代におけるこの種の現象への、高度人為技術の関与(これをもぼく自身確かに経験している)を、ぼくは否定しないが、同時に、ルソーの時代でも、問題の現象を起こす方法が存在したのではないか。ぼく自身の現象経験も、この二要素をぼくに察知させるようなものなのである。あれが、単に高度機械技術によってのみ起きるものだとは思えない。そういう、「秘術的」なものを感知させるのである。 


 


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共感することが甚だ多い。

 

「そのころ僕は、古(いにしえ)の哲学者とは似もつかぬような、当世の哲学者と一緒に生活していたのだった。彼らときては、・・・ 僕の最も知る必要のある要点について、僕のいだいていた確信をさえ、ことごとくぐらつかせたのである。それというのも、無神論の熱心な宣伝者であり、きわめて猛烈な独断家である彼らには、人が彼らと別に考えるということは、それがいかなることがらであれ、腹だたしく、耐えがたかったからである。・・・ 僕のこの反抗が、どうやら彼らの怨恨を買った最も大きな原因の一つだったらしいのである。

 彼らは僕を説服させえなかったとはいえ、不安にしたのである。その論証は僕を動揺させるのみで、納得させることは絶対になかった。 ・・・ 僕は不条理より誤謬のほうがまだしもいいと思っていた。それで、僕の心情のほうが、僕の理性よりも彼らに多く答えたのだった。

 ついに僕はわれとわが身に言ってきかせた。《僕はこうして永久に、うまいことを言う人たちの詭弁に翻弄されている必要があるだろうか? 彼らが説いている意見、あんなに躍起になって他人に押しつけようとしている意見が、はたして彼ら自身のものであるかどうか、わかったものではないじゃないか? 彼らの学説を支配しているあの熱のあげ方にしても、あれがだめならこれを信じさせようとする、あの関心ぶりにしても、夫子自身、何を信じているのか、推察することさえ不可能なのだ。党派を組む指導者に誠実を求めることができるだろうか? 彼らの哲学は他人用なのだ。僕には自分用のものが一つあればそれでいい。」(「第三の散歩」) 

 

 

「 なるほど僕は、・・・一切の難問題を、必ずしも思う存分に解いたとは申さない。しかしながら僕は、人知をもってしては取りつきようのない問題をあらかじめ究めておこうと決心したのだが、そして、不可知の神秘と、解決しがたい異論(オブジェクシヨン)にいたるところで突きあたったのだが、それに対して僕は、直接的に最も明白にされていると思われた感情、そのまま最も信用していいと思われた感情を、疑問に逢着するごとに採用したのである。そして、よし僕には解明できない異論でも、それとは反対説の、そして、それに劣らず強力な他の異論によって反駁されうる異論にはこだわらないことにしたのである。この種の問題における独断的な口吻など、およそ香具師(やし)にしか似合わないものである。それにしても、自家用の感情をもつことが肝要だ。そして、判断をねりにねったうえで、その感情を選択することが肝要だ。もしそれでもまだ誤謬に陥るとすれば、それはもうわれわれの科(とが)ではないのだから、正当に罰せられるべきではあるまい。これが僕の安泰の基礎となる動かしえないプリンシプルなのだ。

 僕の困難な探求の結果は、その後、『サヴォア僧侶の信条』(*)の中に書いたとおりである。 ・・・ この書は、・・・今後、万が一にも人々に良識と誠意が再生するようなことがあれば、必ず革命を起すにちがいないと思う。」(同) 

 

(*『エミール』に収められている。岩波文庫 中 「サヴォワ助任司祭の信仰告白」。)

 

「 そのとき来、あのように長かった、あのように熟慮を重ねた内省の果てに、自分の採用したプリンシプルの中に安心して落着いた僕は、それをもって自分の行状と信条の動かすべからざる指針としたのである。そして、自分に解明できない異論にも、またときどき、心に新しく現われてくる、予想しなかった異論にも、もはや僕は不安を感ずるようなことはなかったのである。ときに、これらの異論は僕を不安にはさせたが、動揺させるようなことは絶えてなかった。 ・・・ 僕の理性が採用し、僕の心情が確認し、そして、煩悩の皆無の中で、ことごとく内面的一致の印綬を帯びている根本的なプリンシプルに比すれば、・・・ 僕に解明できない異論があったにしても、・・・ あのような内省と配慮によって形成され、僕の理性と心情と全存在に、あのように適応し、他のいかなる学説にも欠けていると思われる内面的一致によって強化された学説が、そのように脆いものだろうか? ・・・ 運命や、人間どもにはおかまいなしで、ただ自分を幸福にしてくれるだけのものに止(とど)めておこう。

 この熟考と、それから得た結論は、さながら天から授かったものではないかと思われるくらいだ。待ち受けていた運命にそなえさせ、それに耐えられるようにしておいてくれたような気がする。そうでもなかったら、・・・僕が晩年に陥った信ずべからざる境涯の中で、いったい僕はどうなっていたことだろう? ・・・ この地上のいかなる人間も遭遇したことのないほどの恐るべき運命に全身を委ねられている自分に気づいたとき、もし僕に用意ができていなかったら、どうだったろう? ・・・ 誰によってだか、なぜだかも知る由なく、・・・ ふたたび立ち直ることは永久になかったろうと思われる。

 ようやく僕が正気づき、自分自身に立ちもどるにおよんで、自分が苦難の用意に蓄えておいた資源の価値を感じるまでには、数年の懊悩を経なければならなかった。裁決する必要のある物は、ことごとくを極めてしまった僕は、自分の持説を自分の境涯に比較してみて初めて知ったのである、彼らの愚劣な批判や、このはかない人生の些事に、僕はあまりにも不当の重要性を与えていたことを。・・・ いかに激しい苦痛とて、そこに大きな確実の償いを見る者にとっては、苦痛の偉力は失われるものである。そして、この償いの確実性は、僕が自分の先前の内省から得た重要な成果だったのである。」(同) 

 

 

「 今もってときおり繙く少数の書物のうちでも、僕にはプルータルコスがいちばんおもしろく、また、得るところもいちばん多い書物である。」(「第四の散歩」初めより)

 

『人生の幸福とは何であるかを知ったら、人の持っている物など羨ましがる必要はない。』 プルタルコス

 

( 『人は環境によって抑圧される自身の人格を守り、汚れのないままでいようという願望をもつユニークな存在として、芸術的な観念に反応する。』 チェ・ゲバラ )