集合容喙問題についてはぼく自身これまで述べてきた蓄積があり、他の方々による究明の試みも厖大なので、いまや、この問題をどういう次元で扱っているか、という、様々な問題定位(orientation)の仕方に注意を払い、諸次元での問題追及・反省が、否定し合うことなく総合的に効果あるものとなるよう、意を用いる段階に達していると思う。要諦を言うと、この問題は、形而上的反省と、形而下的分析の、両面を活かすようにすべきであるような種類のものである。この問題現象の本質的経験そのものが、この両面性を察知させることを、ぼく自身の経験は示している。 他の被害者の方々で、形而上的な面を問題にせぬ定位の仕方をしている人々がいても、すこしも構わない。それどころか、形而下的次元のみで具体的に分析追及する姿勢は、不可欠である。正義は、この方向で責任の所在をあきらかにすることを求めている。ただ、現象は、それだけでは尽くされない要素を同時に示しているので、これはじっくりぼくのほうで反省してみようと思っている。
集合容喙現象は、その原因をまったく主観に求めることが誤りであると同様、まったく三次元客観世界に求めることにも無理があることを、この現象経験そのものが示している。
(先例としてのルソーの経験。)