いま、裕美ちゃんに帰依しているから、そうでなくとも意識の埒外にある欧州滞在中の女性たちの思い出ことは、いっそう彼方にあったのだが、裕美ちゃんの素描をしていて、前進の壁を内的に限界突破しようとし、図らずも、じぶんの内なる女性的なものを想起した。女性を描くには じぶんの内に女性らしいかわいらしいものを呼び覚まさなければならない。 そうすると 記憶のなかにある女性たちのことを、いま思い出しているのである。そういう余裕は いままでまったくなかった。 すると、ぼくの居たドイツとフランスで、幸運にもぼくはずいぶん良質の当地の女性と 「ともだち」としてこころの触れ合う経験をしていることを想起している。いずれも大学の文系を出ている、基本的な人間性がよいひとたちだ。ぼくはどうも男性とは性が合わず、女性とは、社会的関係枠にとらわれない自由な人間関係を、自然な天性のように保てるのである。そしてぼくのこういう「とらわれのなさ」は、向こうの女性たちにとても合って、好感と信頼をもたれた。 ぼくは向こうのほうが人間関係は多くうまくやれるかもしれない。ぼくは、人間意識の原理が、天性的に向こうとおなじだからである。「個人主義」というのだろうか、それはぼくの本性なのである。どこでも、「人間」対「人間」として向き合ってくれるので、とてもやりやすかった。日本の場合よりもぼくペースで接することができるのである。日本の場合はたいていいつも社会枠が個人と個人の間に割り込んでくる。ぼくはそうしないが向こうがそうする。これはぼくにとってとても不快なことなのである。誓っていうが、ぼくはたとえ一夜を明かしても安全このうえない人間なのである。ぼくはただ女性といるのがいちばん安定していられる。そして欧州は個人意識が徹底しているから、当地の女性たちから言葉で不快な思いをしたことはほとんどない。ずいぶんよくしてもらった。どこでも、まだ若くてきれいでかっこいい女性たちでしたけどね。いっておくべきは、どういう国籍でも、人間感覚ある人々というのは人間としてみなおなじということ。そして向こうの国の人々のほうが人間はずっと素直で純粋で真摯だった。

 

 なにかいいたかったはずのことをいえたろうか。そう、ぼくのなかの女性性と和合するこころを、このたいへんな状態のなかでやっと思い出した、その連続上で、ぼくは恋人というのではなく よい女性にはどこでもめぐまれていたことを、めずらしく思いだすような平穏な気持ちになっている、ということなのだ。 ぼくにとって個人の人間関係といえばほとんど女性とのものである。男性はいてもぼくにとっては意味をなさない。 女性とのみぼくは人間として安心する。それは、男の原理は虚偽で、女性性の原理こそ信頼しうる「存在」のものだからなのだ。 

 

 

〔「個人主義」は「人間主義」と同義であり、しかもほんらい「主義」ではない。「人間」尊重をあらしめているのは「実証」の精神であり、日本の所謂精神主義とは無縁である。「人間」を離れて何か超越的原理を認めないのが「人間主義」の意味である。日本人が、個人の苦衷や問題を、想像や主観的尺度で推断するのは、具体的「実証」の精神の不在であり、このゆえに、「人間」を原理としていないことである。〕 

 

〔 「 ”620 覚書 (「海辺の墓地」冒頭)”   05月10日 13:07」 において引用してある高田先生の文章を味読してほしい。ぼくが上で言っていることとまったく重なるのである。 5.11〕