昨日8接続されました。自発的に読んでくださる読者諸賢には感謝です。この訳はぼくにとっても貴重なものなので、バックアップのつもりで再録します。あと「若きパルク」くらい訳したいという気持ちはあります。



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Le Cimetière marin
「海辺の墓地」
 
 

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée !
Ô récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux !
・・・・・・
この静かなる屋根、そこに鳩達が歩く、
この屋根は松林の間で震えている、墓標と墓標の間で;
きっかりとした正午は そこに火の群れでかたちづくる
海を、海、絶えることなく繰りだされる海を!
おお 思索の後の褒賞よ
神々の静けさをとおく見はるかすという!
「屋根」は海の隠喩である。そこを歩いている鳩は、白い帆船(ヨット)であろう。遠近概念が捨象された純粋感覚が鮮やかに描写されている。無数の火のゆらめくように太陽の光を反射させる波が動き寄せる真昼の海原である。思索反省の極限において思惟そのものが自壊消滅した刹那に目前の大自然と純粋に接触した意識開放の感動であると思う。
(故郷の町セットからの地中海の眺めであるという。詩人と海の間に墓地や松林があるのであろう。最後に出てくるが、詩人はここで読書をしていた想定だ。自分の慣れた町だからそういうこともあるだろう。「君とみた海」のほうがぼくはいいけどな・・)

・・・・・・
Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d'imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir !
Quand sur l'abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d'une éternelle cause,
Le Temps scintille et le Songe est savoir.
・・・・・・
微細な閃光達の何という純粋な働きが
知覚もできない泡沫の数知れぬダイヤモンドを焼尽し、
そして何という平和が懐胎されるように思われることか!
深淵の上に太陽が憩うとき、
永遠なる原因の純粋な諸作品、
「時」はきらめき 「夢」は知である。
光輝く海が、太陽と海という生産的(創造的)二極を孕む〈存在そのもの〉の一元化された具象象徴であるとすると、この〈永遠なる原因〉の〈純粋な〉すなわち直接的で密接した(親密な)〈諸作品〉としての〈時間〉と〈知〉は、通常我々が概念している〈時間〉と〈知〉、すなわち対象性の枠において理解されるそれらではなく、海を純粋に観じるのと同様に直接的に経験されるものであろう。事実上〈時〉は「いま、ここ」に凝集収斂され、目前の海の〈きらめき〉そのものとなり、〈知〉は分析以前の純粋感覚こそであることになる。つまりそういうものとしての〈夢〉(と通常見做されているもの)こそ〈知〉であることになる。日常的認識枠の逆転が起っているのである。
(詩人はそういう境地を、事物をありのままに叙述することによって視覚的に表現している。同時代の印象派絵画のイマージュの摂取もあるよね。実に実証的な道元の悟りの表現とも似ている感があるね。でも、〈知覚もできない泡抹の〉とか、実際の知覚を超えた抽象的思惟も働いているよ。こういう点、ヴァレリーは科学的知見もしたたかに取り込んでいるね。)
(ところで、続ける?)
訓練としてね。ヴァレリー自身だって文学を訓練としかとらえていなかったんだから。高田先生だって、ヴァレリーは照応の相手であり、倣ったのでも従ったのでもないと言っている。先生がどういう照応のさせかたをしたのかもっと感得してみたいんだ。
(それはよくわかる。ただきみはゆとりがないんだから、自分の本道を一時的にでもみうしなわないようにね。)
それもわかってる。きみと話してるのもその確認のためだ。

・・・・・・
Stable trésor, temple simple à Minerve,
Masse de calme, et visible réserve,
Eau sourcilleuse, OEil qui gardes en toi
Tant de sommeil sous un voile de flamme,
Ô mon silence ! ... Edifice dans l'âme,
Mais comble d'or aux mille tuiles, Toit !
・・・・・・
安泰なる宝庫、ミネルヴァの単一なる神殿、
静けさの量塊、そして可視なる貯蔵、
屹立する水、眼よ、自らの内に
これほどもの眠りを炎のヴェールの下に抱いている汝よ、
おお 我が沈黙よ!・・・魂の内なる殿堂よ、
しかして幾千もの甍で葺かれた黄金の充溢、屋根よ!
これは、いわば外物(オブジェ)である海を詩人自らの〈魂の内なる殿堂〉であり〈我が沈黙〉であると「内化」して表現していることが特徴深い。しかも同時に可視的な外物なのである。けっして外的印象の記憶として内面化されているのではない。〈内なる殿堂〉は具体的感覚として現前している。「感覚の純粋状態」とはそういうもの、外界がそのまま同時に内部の風景なのである。〈内〉と〈外〉とは分裂していない。一元化している。〈屹立する水〉という非通常的な表現で、「意識」に介された海の観念を、意識以前の脱観念的な感覚へと意図的方法的に誘導していると解することもできる。水平線を画面の上部の高い位置に置いた絵を思い浮かべるが、ヴァレリーはこの絵から更に鑑賞者のうちの海の観念をも脱落させて、いわば画布の上に純粋な色彩配置のみを感覚するように、海そのものをも観じることを自他に意図しているであろう。主観(観る意識)と客観(対象・オブジェ)とが密接圧縮されて一つとなる純粋感覚境である。日常と異なる言葉の隠喩(メタファー)機能を駆使して〈幾千もの甍で葺かれた黄金の充溢、屋根〉と敢えて人工的表現で海の光景を現出(表象)する意図は、すべて非日常な「感覚の純粋状態」へ自他を想起させ近づけ、その状態そのものを惹起させようという目的に向けられていると私は解する。付け加えるならば、生命存在の包括的具現象徴の海が、〈これほどもの眠りを炎のヴェールの下に抱いている〉というイマージュは、まさしく「地中海」と題されたマイヨールの静かに身をかがめ座りまどろむ女体像のえもいわれぬあたたかな存在性を想わせずにおかない。詩人はこの全体感覚に言葉で接近し、彫刻家はその感覚の具象象徴そのものを生んだといいうる。難解と言われる象徴派の言語使用の意図のひとつをここで了解するように思う。
(かなりいいところに詰めてこられたね。甲斐があった。もう四時だし休もう。)
・・・・・・
Temple du Temps, qu'un seul soupir résume,
A ce point pur je monte et m'accoutume,
Tout entouré de mon regard marin;
Et comme aux dieux mon offrande suprême,
La scintillation sereine sème
Sur l'altitude un dédain souverain.
・・・・・・
「時」の神殿、ただ一息で要約できる、
この純粋な一点へ私は高まってゆき自らを馴染ませる、
私の海への眼差しがすっかり囲んでいるこの一点へ;
そして神々への私の最高の捧げ物のように、
晴朗なきらめきは撒き散らすのだ
いと高きところへ 至高の侮蔑を。
(リラックスしていこう。出来る範囲で構わない。)
一行目(三行目まで)はよく解るね。〈時〉を〈瞬間〉(一息・純粋な一点)に凝縮すること。このような感覚(日常的時間の超脱)を志向しみずからそれに馴染むこと。詩人はこのことを目前の海の光景に没入すること、謂わば「もの」への実相観入によって果たそうとする。(うん うん、日本の画家の坂本繁二郎なんかそれだよね。彼だけじゃ勿論ないけれど。)後半の三行だけど、これは禅の殺仏殺祖にも似て、実相の〈晴朗なきらめき〉(海-地中海-の純粋感覚)そのものになりきった詩人にとっては、自分自身が〈至高の〉神聖なるものそのものなので、〈神々〉への〈侮蔑〉つまり自分以上の権威的存在の否定こそは、それらへの〈最高の捧げ物〉であるという逆説になる。
(言うことなし。)
・・・・・・
Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l'âme consumée
Le changement des rives en rumeur.
・・・・・・
果実が溶けて享受されるように、
口蓋の中で自らの形を失い そして
自らの不在を恍惚の喜びへ変えるように、
私はここで自分の未来の煙の匂いを嗅ぐ、
そして空は焼失した魂に歌うのだ
岸辺がざわめきへと変るのを。
この箇所はぼくの好きな、とても魅力的なきわだったところだ。それまで視覚的なイマージュが支配的だったのが、ここに来て味覚、嗅覚、聴覚のそれへ変貌する。自分が死んで焼かれ空へ昇った状態へと詩人の想念はメタモルフォーゼする。この超視覚的な情景描写、夢幻で恍惚とするね。理屈を超えた〈詩人〉の感性・想像力だ。(このころ土葬じゃなくて火葬に移る時期だったのかな。まあいい。)ともかく、魂が天空へ帰って、下界の岸辺ももう見えず、かえってその打ち寄せる波のざわめきだけが知覚されて(聞えて)いるというのは、天空と地上の区別すらもうなく、これらも一体となって、無限のハーモニーを奏でている、自分もそれに溶け入っている、ということだね。いいなあ。
(なんかぼくのお株をとられたね。)
・・・・・・
Beau ciel, vrai ciel, regarde-moi qui change !
Après tant d'orgueil, après tant d'étrange
Oisiveté, mais pleine de pouvoir,
Je m'abandonne à ce brillant espace,
Sur les maisons des morts mon ombre passe
Qui m'apprivoise à son frêle mouvoir.
・・・・・・
美しき空、まことの空よ、変貌した私を観よ!
多くの倨傲の後、珍奇な
しかし力に満ちた無為の後に、
私は自らをゆだねる この輝く空間へ、
死者たちの家々の上を私の影は通る
己れのはかなき動きに私を馴染ませながら。
(詰めてやるね。ほら、やっつけ仕事ってよくないんじゃない? 巻き煙草を作るようにやらなくっちゃ。)
きみがどういう名かだんだんはっきりしてきた。ぼくの感性だね。そしてぼくは意志だ。
(そうらしいね。きみはすぐ自分で決めたことで強引に突っ走りやすいから、ぼくは調整役を仰せつかっているらしい。)
ぼくもはやく訓練を終えたいっていうのが本音なんだ。理由は解るだろう。はやくきみと合流したい。上の句はとくべつどうってことはない。〈多くの倨傲、珍奇な しかし力に満ちた無為〉とは、此の世での思索者の生活で、その生の後、〈影〉(ゴースト)に変貌している。〈輝く空間〉と既に或る意味で一体となっているんだが、何の未練か因果か、あるいは義務意識からか、一方で〈影〉として〈死者たちの家々〉つまり墓標の上なんぞをうろちょろしている。ぼくは日本のあの類の家なんそまっぴらだがね。詩人のところは風光明媚でいいんだろうな。影としての自分の行動様式に慣れる訓練期間かな。
(あそこはなかなかよかったよ。)
・・・・・・
L'âme exposée aux torches du solstice,
Je te soutiens, admirable justice
De la lumière aux armes sans pitié !
Je te rends pure à ta place première,
Regarde-toi ! ... Mais rendre la lumière
Suppose d'ombre une morne moitié.
・・・・・・
魂は夏至の松明に晒されて、
私は汝を支持しよう、賛嘆すべき正義よ
情け容赦なき武装をしたる光の!
私は汝を原初の純粋状態で回復しよう、
ほうれご覧!・・・だが光を回復するというのは
影という生気のないもう半分を予想するのだ。
地中海の光!南仏の光!これが鍵観念だ。すべてを感傷なく照らし明るませることにおいて容赦がない。すべてはくっきりと白日の許に曝される。〈知性〉の象徴である光。フランス啓蒙時代という呼び方は外国とくにドイツからの呼名(アウフクレールンクの訳語)で、フランス本国では「光(リュミエール)の世紀」と言われた。フランス精神の本質と言われる「明晰さ」への志向。詩人もこの精神を受継ぎ徹底させる。感覚や感情も知性による分析が貫徹される。デカルトやメーヌ・ド・ビランの反省精神がまさにそれであった。徹底的に即事象的に分析される。しかしそうして分析されることは窮極において感覚や感情そのものの純化、純粋状態においてそれらを感知することへ至る。「知性(合理)の刃で分析し、余分なものを排除してゆくほど神秘が接近してくる」(高田博厚)。フランス文化圏以外のどこでもこの精神運動はそこまで真に実践されていない。フランスの芸術家、画家達もそのような光に目覚めて己れに到達した。しかしそのことによって光の形成するもう半分、影にも目覚めた。そのコントラストは必然であると詩人は言う。影とは何であろうか。単に否定的なものか。それ以上の可能性か。
(今晩も昨晩と同様に東の空にオリオン座がきれいにみえている。ぼくたちにもまだ星の光をみる力があるね。)
・・・・・・
Ô pour moi seul, à moi seul, en moi-même,
Auprès d'un coeur, aux sources du poème,
Entre le vide et l'événement pur,
J'attends l'écho de ma grandeur interne,
Amère, sombre et sonore citerne,
Sonnant dans l'âme un creux toujours futur !
・・・・・・
おお 私のみのために、私独りの処で、私自身のなかで、
心の在り処、詩の源泉で、
空虚と純粋事象の間で、
私は待つ 私の内なる偉大さの木霊を、
苦く、陰鬱で よく響く貯水槽、
魂の中で 常に未来である洞穴を鳴らすものを!
詩人というものはやっぱり受難だなあ。創作するためには孤独に耐えなければならない。芸術家、本物を生み出そうとする芸術家はみなそうだ。孤独の中で待つ。そこは最も〈空虚〉か、最も満たされている〈純粋事象〉か、両極端の間に張り渡されている楽器の内部のようだ。たぶん、卑小さと偉大さが同時にある。純粋な精神というのはね、俗が無いだけ、とても誤解されやすくて、本人は、あれだけ素晴しいものを産み出すのに、どうしてそんななの?と思われるところがあるのだとぼくは思う。貧しさと豊かさの両極端。最も純粋な豊かさに恵まれるためには、最も赤貧に耐えなければならない。充溢と不在。詩人、芸術家は、それが表裏であることを知って、それを生きている者なのだ。名前をいちいち挙げるにおよばない。高田先生がそうじゃないか。観て感じてごらん。説明は要らない。よく響き心を打つ音を産むための楽器の本性そのものだ。待ち望んでいる洞穴。そのことを上の句〈常に未来である洞穴〉は言っている。
(純粋な充溢は自分で所有できないね。神とともに生きる修道士はそれを知っている。)

・・・・・・
Sais-tu, fausse captive des feuillages,
Golfe mangeur de ces maigres grillages,
Sur mes yeux clos, secrets éblouissants,
Quel corps me traîne à sa fin paresseuse,
Quel front l'attire à cette terre osseuse ?
Une étincelle y pense à mes absents.
・・・・・・
知るか? 汝よ、葉群れの間の偽りの女囚よ、
湾よ この細い格子を浸食するものよ、
閉じた私の眼の上、まばゆいばかりの秘密よ、
どんな体が自らのもはや動かぬ果ての姿へ私を引き寄せ、
どんな顔がこの骨の埋まった地面へ誘うのかを。
ひとつの火花が其処で私の不在の人々を想うのだ。
上二行は相変わらず海と木々と葉群れが日光の反射作用で遠近感なしに織り成すアラベスクの様、その印象を言っている。葉群れの隙間からちらちら見える湾(セットの町は出島のような小半島に在って、当然、湾に相当するものがある)、この湾の海を、海が文法上女性形だから、葉群れという〈細い格子〉に囲まれた〈女囚〉に喩え、しかも一方でこの格子を反射光線で射すことによって〈格子を浸食する〉と表現している。そういう印象をぼくは受ける。ナビ派の画家モーリス・ドニの、外光や影のグラデーション効果をすべて装飾的な平面的色彩紋様に還元して描く画布世界を彷彿とさせる。そのなかで詩人は墓地で眼を閉じ、目蓋を透かしても海から反射する陽の光を尚まばゆく感じながら、自らの物故者たちのことを想う。この死者たちを想うのは、科学的知見によれば或る〈ひとつの火花〉-物質的に見られた精神-燐光の如きものであるとあっさり言っている。まだ自らの身体を持っている思念であるのか、既に解放された思念(精神あるいは魂)のつもりなのか。ともあれヴァレリーも肉親への想いを懐き、それを断てない人のようである。
(純粋感覚主義者も、独我論には陥らず、他者の人格を想う人のようだね。)
・・・・・・
Fermé, sacré, plein d'un feu sans matière,
Fragment terrestre offert à la lumière,
Ce lieu me plaît, dominé de flambeaux,
Composé d'or, de pierre et d'arbres sombres,
Où tant de marbre est tremblant sur tant d'ombres;
La mer fidèle y dort sur mes tombeaux !
・・・・・・
閉じられ、聖別され、非物質の火に充たされた、
地上の断片 光に供された、
この場所は私の意に適う、おびただしい燭光に圧倒され、
黄金と石と暗い樹木で構成された場所、
たくさんの大理石がたくさんの影の上で震えている;
忠実な海がそこに眠っている 私の墓標たちの上で!
ざっと読んで意味がとれるつもりの内容でも、それを言葉にしてみるのが訓練なのだよ。訓練問題がまだいくつもあるね。学校の宿題みたいだ。
(誰もみていなくてもやるさ。きみは決めたことはめったなことでは途中でやめないからね。自分に関わることのなかでほかのすべてを忘れてしまう。)
きみと話していることが意味するようにね、そうでもないのだよ。人生課題そのものが豊かな緊張を孕んでいる。
 詩句のほうは、ぼくの註解なしでも読者は大方読めるようになったのではないかな。さぼっていい宿題もあるみたいだね。
・・・・・・
Chienne splendide, écarte l'idolâtre !
Quand solitaire au sourire de pâtre,
Je pais lomgtemps, moutons mystérieux,
Le blanc troupeau de mes tranquilles tombes,
Eloignes-en les prudentes colombes,
Les songes vains, les anges curieux !
・・・・・・
燦然たる雌犬よ、偶像崇拝者を隔てよ!
孤独に 羊飼いの微笑をたたえて、
私が長きに亘り草を食む時、神秘な羊たち、
私の静かな墓石たちの白い群れ、
そこから用心深い鳩どもを遠ざけよ、
虚しい夢想の数々を、物見高い天使どもを!
第一行、字義に即し〈隔てよ〉と訳したが〈追い払え〉が文意としてはよいかもしれない。〈燦然たる雌犬〉とはぎこちないが、光輝く海のことであるのは、〈海〉(前節)が文法上女性形であるのに従っていると見做されることからも明らか。〈神秘な羊たち〉すなわち自分の縁者たちの墓石の〈白い群れ〉に黙想を捧げている-〈長きに亘り草を食む〉-詩人は、自らを〈羊飼い〉に喩え、海を謂わば聖なる番犬に喩えている。海は、謂わば唯一無二の魔除けであり、詩人と彼の縁者たちの霊を悪しき存在-〈偶像崇拝者〉-から護ってくれる、現前する啓示である。悪しき者達とは、不純な偽善者達、その隠喩的象徴が〈鳩ども〉であり、悪魔そのものと言ってよい〈天使ども〉(事実的に我々の生に容喙してかき乱す存在-ジャンヌ・ダルクの顚末のように-)である。この存在どもは、空念仏のような〈空しい夢想〉、〈偶像〉のような神々、実体の無い思想や観念によって我々を欺く。存在実相との一致である純粋感覚によって、これら妄念とその支持者どもを破砕、むしろ陽光の前の陰のように本来の無へ返さなくてはならない。
(詩人はそのことの実践に自分の使命を感じているのだろうね。海こそは神、自分はその真理を伝える牧者-キリスト-すなわち救世主になぞらえているんだろうか。表現とはいえ、詩人の本来の分析的知性態度からすれば大胆だね。一種の戯れ、イロニーとも感ぜられる。)
・・・・・・
Ici venu, l'avenir est paresse.
L'insecte net gratte la sécheresse;
Tout est brûlé, défait, reçu dans l'air
A je ne sais quelle sévère essence ...
La vie est vaste, étant ivre d'absence,
Et l'amertume est douce, et l'esprit clair.
・・・・・・
この地に来ては、未来は懶惰そのものだ。
汚れなき昆虫が乾燥したものを掻き削る;
すべてのものは焼かれ、解体され、中空へ受容され
見極められぬ厳粛な精粋へと還元される・・・
生命は茫漠として、不在に酔いしれ、
苦痛も甘美であり、精神は明晰である。
ここ〈海辺の墓地〉の境位においては、「いま、ここ」に時間は要約され、〈未来〉は捨象されているも同然だ。〈懶惰〉はその不在性の表現。第二行は、「時による『もの』の風化」の言表で、未来の不在性をいっそう強調する。〈汚れなき昆虫〉とはその風化させる時の力。時という「風」の力そのもので、粘りを失った砂の楼閣を文字通り究極的には気体の分子へ還元回収する。〈生命〉はその原初の不在性へ帰り同化し、一種の無我の陶酔境にあって苦痛も勿論無く、精神は窮極の至純の透明性のなかにあるであろう。
(ヴァレリーは原子論的アニミストだね。)
・・・・・・
Les morts cachés sont bien dans cette terre
Qui les réchauffe et sèche leur mystère.
Midi là-haut, Midi sans mouvement
En soi se pense et convient à soi-même ...
Tête complète et parfait diadème,
Je suis en toi le secret changement.
・・・・・・
死者たちは隠されて まさにこの地の中に在る
彼らを再び熱し 彼らの神秘を干すこの地の中に。
中天の真昼よ、不動の正午よ
自らにおいて自らを思惟し 自ら自身に適うものよ・・・
完全な頭部と完璧な王冠、
私は汝のなかに秘かに変身しているのだ。
完全に自己充足した真昼の天海地の世界。光は闇の神秘を干す炎の熱でもある。それは完璧な輝く知性、ミネルヴァの頭でもある。知の極限、精神の秘義はそれへの帰一だ。その不可分な一部となること。
(一方でしかし人間であることは影を保持することでもあるよね。次へ)
・・・・・・
Tu n'a que moi pour contenir tes craintes !
Mes repentirs, mes doutes, mes contraintes
Sont le défaut de ton grand diamant ...
Mais dans leur nuit toute lourde de marbres,
Un peuple vague aux racines des arbres
A pris déjà ton parti lentement.
・・・・・・
汝は私のなかにしか汝の怖れを擁していない!
私の後悔、私の疑い、私の気兼ね
それらは汝の偉大なダイヤモンドの瑕疵だ・・・
しかし 大理石でずしりと重たい夜のなかで、
樹木の根に住まうぼんやりとした人々は
すでにゆっくりしずかに汝に与する者たちとなっている。
そう、生きている人間のほうが受苦だ。光の一部であるはずなのに。光が人間というその部分において闇を擁しているのは光の恥辱だろう。しかし〈疑い〉、懐疑というものは人間知性の不可避の隘路、そこを通らなければ知性の光に与れない家路であることを我々は特にデカルト以来知っている。むしろ碑盤と樹の根の下、大地の死者たちのほうが、闇にいるようでじつは無意志的におのずから光に帰入しているのではないか、という逆説感覚を詩人は懐いている。
(「ノスタルジア」・・・)
・・・・・・
Ils ont fondu dans une absence épaisse,
L'argile rouge a bu la blanche espèce,
Le don de vivre a passé dans les fleurs !
Où sont des morts les phrases familières,
L'art personnel, les âmes singulières ?
La larve file où se formaient les pleurs.
・・・・・・
その人々は溶けてしまった 厚き不在のなかへ、
赤い粘土が呑んだ 白い種族を、
生きるという恩寵は花々のなかへ移ってしまった!
亡き人々のうちとけた言葉の数々、
独自な技芸、個性的な魂は いま何処に?
幼虫が這っている かつて涙が湧いていた処に。
・・・・・・
Les cris aigus des filles chatouillées,
Les yeux, les dents, les paupières mouillées,
Le sein charmant qui joue avec le feu,
Le sang qui brille aux lèvres qui se rendent,
Les derniers dons, les doigts qui les défendent,
Tout va sous terre et rentre dans le jeu !
・・・・・・
愛撫された娘たちの鋭い叫び声、
濡れている眼、歯、まぶた、
熱情と戯れる魅惑の乳房、
自らを委ねる唇にかがやく血潮、
最後の賜物、それを護る指、
すべては地にかえり ふたたびよみがえる!

二節を一纏めにしよう。万生無常。
(転生輪廻。詩人の物活論からすれば自然な発想だろう。)
・・・・・・
Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n'aura plus ces couleurs de mensonge
Qu'aux yeux de chair l'onde et l'or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez !  Tout fuit !  Ma présence est poreuse,
La sainte impatience meurt aussi !
・・・・・・
そして貴方、偉大な魂よ、夢を期待しますか?
此処で波動と黄金が肉の眼に映じさせる
偽りの色彩をもはや持たぬ夢を。
貴方は歌うでしょうか? 蒸気のごとくおなりになった時も。
ほら! すべては逃げゆく! 私の現存は笊(ざる)のようで、
聖なる待望感情も死に瀕しています!
彼岸への宗教信仰にも彼は否定的。あらためてだけど。聖なる次元への禁欲的待望だけでは此の世の無常、虚しさは支えきれないと感じている。
(むしろ此岸の感覚的豊かさを受け入れなければ魂は救われないだろうね。)
・・・・・・
Maigre immortalité noire et dorée,
Consolatrice affreusement laurée,
Qui de la mort fait un sein maternel,
Le beau mensonge et la pieuse ruse !
Qui ne connaît, et qui ne les refuse,
Ce crâne vide et ce rire éternel !
・・・・・・
漆黒と金箔の痩せこけた不死性、
おびただしい月桂冠で被われた慰めもの、
死から母の胸をつくるもの、
麗しい嘘と敬虔な奸策!
あの空洞な頭蓋骨も あの永遠の哄笑も、
いずれをも識らず、いずれをも拒みさえせぬもの!
神学的詭弁への批判。物質的現実も真昼の純粋感覚も識らない。これらを見ようとしないのだから積極的拒否でもない。
(拒否していたら芸術は生れなかっただろう。そんな〈痩せこけた〉文化は御免だ。人間は耐えられなかっただろうね。)
・・・・・・
Pères profonds, têtes inhabitées,
Qui sous le poids de tant de pelletées,
Êtes la terre et confondez nos pas,
Le vrai rongeur, le ver irréfutable
N'est point pour vous qui dormez sous la table,
Il vit de vie, il ne me quitte pas !
・・・・・・
深き淵の祖先たち、無人の頭部たちよ、
あなたたちは厚く盛られた土の重みの下で、
大地そのものであり われわれの歩みを当惑させる、
まことの侵蝕者、抗議を受けつけぬ虫は
碑盤の下に眠るあなたたちには全然存在しないのだ、
この虫は命(いのち)を喰らって生き、私を離れない!
死者たちはむしろ解放されている。そしてわれわれ生ける者たちに、たえず無言の問いを発している。われわれはそれをじつは感じているのだ。ヴァレリーは単なる合理主義者ではないね。ロシアで自らに覚醒したリルケが共鳴するものを持っている。さっききみが言った「ノスタルジア」・・・ 大地の魂たちの夢想。侵蝕する虫は死者たちの与り知らぬところだ。外なる世界に生きるわれわれにこそ脅迫観念なのだ。
(「安らかに眠ってください」なんて傲慢もいいところだ。われわれこそ死者の上にではなく下に生きている。)
・・・・・・
Amour, peut-être, ou de moi-même haine ?
Sa dent secrète est de moi si prochaine
Que tous les noms lui peuvent convenir !
Qu'importe !  Il voit, il veut, il songe, il touche !
Ma chair lui plaît, et jusque sur ma couche,
A ce vivant je vis d'appartenir !
・・・・・・
愛か、多分、或いは私自身への憎悪か?
その秘密な牙は私というものに相当身近いので
どんな名でそれを呼んでもよいのだ!
どうとでも! それは見、欲し、夢み、触れる!
私の肉がそれの気に入っている、褥(しとね)の私までも、
この生けるものに身を任すことによって私は生きるのだ!
情念は、最も私自身に近い、私自身とさえ言える、私における他者である。このことを誰がよく意識していないだろうか。精神なるものが、コギトが、自覚されるのは、この意識において、この意識に即してである。これが私における〈生〉である。この節でこの「情念=生」が端的に言われている。全き意味で私自身ではないが、これを離れては私は現存できない。最も内なる駆け引きの現状。屈するのか、精神の理念に引き入れるのか、堕落と昇華の緊張の場であることを誰が知らないか。
(フランス思想に特徴的な身体論の領域だね。デカルトから現代現象学派に至るまで、フランスほどこの領域を敏感に反省思索の梃子にしている思想圏はない。抽象的・単に精神的に内面的な思索ではなく、具体的・実感的で生々しい存在論的思索-マルセルの形而上的日誌のような-がここから可能になっている。)
・・・・・・
Zénon !  Cruel Zénon !  Zénon d'Elée !
M'as-tu percé de cette flèche ailée
Qui vibre, vole, et qui ne vole pas !
Le son m'enfante et la flèche me tue !
Ah !  le Soleil ... Quelle ombre de tortue
Pour l'âme, Achille immobile à grands pas !
・・・・・・
ゼノン! 酷いゼノン! エレアのゼノンよ!
汝は その翼のある矢で私を射抜いたのか
空気を振動させ、飛び、そして飛ばない矢で!
音が私を生み そして矢が私を殺す!
ああ! 太陽・・・亀の何という影
魂にとっては、動かぬ走るアキレウスだ!
これは周知のエレアのゼノンの分析思考一般のパラドックスの話だ。一から紹介するつもりはない。要するに、「身体的生=情念」の領域が一方にあり、もう一方に分析思考の自家撞着の領域が精神にはある。どちらも精神を或る意味で支えながら喰おうとする、前門の虎、後門の狼の面をもつ。この間にあって、精神(魂)は自らを救う活路を見出さなければならない。これこそ〈知性のドラマ〉であろう。
(まったく同感。そう思う。早く合流しよう。)
・・・・・・
Non, non ! ...  Debout !  Dans l'ère successive !
Brisez, mon corps, cette forme pensive !
Buvez, mon sein, la naissance du vent !
Une fraîcheur, de la mer exhalée,
Me rend mon âme ...  Ô puissance salée !
Courons à l'onde en rejaillir vivant !
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否、否!・・・ 立て! 相次ぐ時代に!
砕け、我が体よ、その思案げな形姿を!
飲め、我が胸よ、生まれたばかりの風を!
冷気が、発散した海の冷気が、
私に私の魂を回復させる・・・ おお 潮の力よ!
走ろう 波へ向って 生命をほとばしらせて!
遂に「私自身」が〈爆発〉した。海を、悟りにも似た境地で観照する様を描きつづけるのかと思ったら、そうでもないらしい。だんだん静的観照に即した夢想や反省にもゆき詰まりを覚えてきて、静止的な〈屋根〉の海のイマージュを克服したい衝動が、〈魂〉から生まれてきているようだ。詩の流れとしてはそうである。〈思索の褒賞〉と冒頭で言われた海の純粋感覚からあらたに始まった物思いに我々はつきあってきたかたちになっている。海は存在実相であり、感覚の純粋性を覚醒させるが、生命の源でもあり、海のほうから詩人の現存生命に働きかけて、(深夜でその体でよく頑張っているね。ぼくしか言うひといないから言うけど。)魂の後押しをさせる。〈思案〉の窮状から魂を解放しようと。いまや観想ではなく全身的行為によって魂は「いま、ここ」での天地自然との一体を果たすのである。
(行動によってしか認識の二律背反は克服できない。実践知性の優位だ。)
それからここで〈相次ぐ時代に〉と詩人がいきなり通常の意味での歴史の中での実践を強調してきたのも不意を突かれる感じだね。第一次世界大戦がちょうど終わった頃作られたものだ。この大戦は純粋芸術家の意識にも甚大な影響を及ぼした。単に社会貢献の意味でなく、芸術行為そもののにおける「時」の制約、「もの」への具体的関わりにおいて己れを形成することの必然性、が自覚されたようだ。芸術家がのんびりできる時代ではなく、時間空間への自己規定によって自分を支えざるを得ない、精神的に厳しい時代だった。

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Oui !  Grande mer de délires douée,
Peau de panthère et chlamyde trouée
De mille et mille idoles du soleil,
Hydre absolue, ivre de ta chair bleue,
Qui te remords l'étincelante queue
Dans un tumulte au silence pareil,
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そうだ!数多の錯乱を賦与された偉大な海よ、
豹の皮膚 幾千もの太陽の偶像で
穿たれたマントよ、
完全なるヒドラ、自らの青き肉体に酔える者よ、
汝は自らの燦然たる尾に繰り返しかぶりつく
沈黙の如き喧騒のなかで、
これは鮮やかな描写表現で直にわかるね。怪物のごとき、狂気をも孕んだ生命運動そのものとしての海。〈屋根〉のヴェールがはがれて実体が現れたね。轟いている。
(自然の轟々とした沈黙、よくわかる。)
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Le vent se lève ! ...  Il faut tenter de vivre !
L'air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues !  Rompez d'eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !
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風が立っている!・・・ 生きようとしなければならぬ!
途方もない空気が私の本を開いては閉じる、
飛沫を上げる波が岩々から噴き出そうとしている!
飛び立つのだ、頁はかき乱された!
断て、波たちよ! 断つのだ 歓びに満ちた海水から
三角帆どもが酩酊していたこの静かな屋根を!
〈波たち〉は人間たちへの呼びかけだろう。安逸-〈静かな屋根〉-を去って〈空へ飛べ!〉というのが原意だ。終戦直後にも詩人はすでに更なる激動の時代の始まりの空気を感じていたのだろうか。感覚の覚醒のためにも、純粋に生きるためにも、書物の文字の世界を越えて現実の大海原の世界に出てゆかなければならない。時代がそれを要請してもいるかのようだ。
(詩を捨てたランボーのようだね。彼が象徴派の先頭を走っていった。)
デカルトもスコラ学を閉じ敢えて三十年戦争の乱世で世界という書と自分を探究する生に身を投じた。目的は詩人とは違ったかもしれないが。ところでここでヴァレリーが持っていた本というのは、自分のこの詩ではないかという気がしている。
(俺の本で訓練しているのもほどほどにして、自分の生を生きろ、ということか。ヴァレリーの風だね。)
そういうことらしい。じゃあ、こんな詩なんか放り上げて卒業といくか! ほうれ!!
 )ランボー!!!(
どうしてもそれが言いたかったね!



 Traduction achevée le 23 décembre 2014, minuit.
 Commentaires finis le 28 au même mois.