下に引用した文は熟読してほしい。とくに〔 〕の「超越論的」の議論と、その後の「人間的な違和感」の文。魂の健全な生にとって有害無益な彼らの僭越さに ぼくは容赦しないつもりだ。 集合容喙現象の解明には超次元の理解が必要だが、彼らは超次元について、すなわち人間について、きわめて一義的な主張に固執しており、悪魔的存在の関与に無知で、これを否定している。のみならず、苦しい集合容喙被害者に、自己責任だと言う輩である。水俣病被害者や拉致被害者にも「本人の責任だ」と言うべきだろうが、それはしない。しかし同じことを日常他者に言い放題である。それをぼくは、他者の魂への慎重さの観点から、容赦しない、と言っているのである。こういうものに日本でも「侮辱罪」を成立させるべきである。日本人はこういう勝手主張に甘すぎる。

 

ぼくは自分のことに集中しなければならないが、上の問題は、魂倫理に基づく社会のけじめの問題である。 

 


 

 

信仰を知に還元しようとするあらゆる態度に共通なのは、「超越論的お墨付き」である。ぼくは、これをつぶそうとする断固たる意志をもっている。これだけは、面と向かって言おうと思う。

 

 

世のスピリチュアリズムとぼくの魂主義は、態度が原理的に異なるものである。それは、知と信仰が異なるように異なる。スピリチュアリズムが、どんなに霊的現象を引き合いに出そうとも、彼らの説の「超越論的お墨付き」にはならない。現象の事実は、彼らの説を、立証しない。

 

 

彼らは、信仰と確信であるものを知に還元することによって、信仰と確信を知以下のものにしてしまう。彼らは、この倒錯に気づきすらしないほど、その意識は幼稚である。にもかかわらずその隠している(明白な)高慢は甚だしいので、これをつぶす意味は、健全な魂のために、充分にある。彼らは、いかに言おうとも、健全な魂をけがす者である。寛容にしていたのでは、無礼な言いたい放題をけっしてやめない。

 

 

まず、ぼく自身における態度を、ここで固めておくことにする。

 

 

 

〔「超越論的(transzendental)」とは、哲学史上高名な哲学者の議論の立場であり、これによると、世界は超越論的には観念的(主観的)だが、同時に経験的には実在的(客観的)である、というように理解される。世界は、超越論的意味での主観の形成したものであり、存在そのものではなく、現象にすぎない、ということである。「人生で起こるすべては本人の責任である」という主張は、「人生で起こるすべては客観的理由という必然性によるものである」という見解と、一見矛盾するようであるが、この見かけ上の矛盾は、観点の次元の相違によるものであって、超越論的には両立しうる、ということは言い得る。ぼくの言いたいことは、スピリチュアリストが、「人生で起こるすべては本人の責任である」と主張するのは、超越論的主張に類似している、ということと、同時に、それならばなおさら、このような超越論的主張を彼らがすることは、人間として僭越であり、本来の「超越論性」の意味にも反する、ということである。なぜなら、本来の超越論的議論は、知の限界において為される、知にはけっして還元されないことを自覚している営為であり、本来、まさに「信仰」に可能性の空間を開くためのものなのであり、「信仰」であるべきものを「知」にするものではないからである。 ぼくは以前、「スピリチュアリズムは逆立ちした実存哲学である」、と言ったが、これも、彼らが「知」と「信」の秩序を転倒していることを指摘して言ったのである。〕

 

 

本質的には、知の真偽が問題なのではない。信仰の本来の感情のゆたかさと真面目さは、知の意識によって損なわれ、不真面目なものとなる。これこそ問題なのである。現今のスピリチュアリストの生活意識をみていて、そう思うのはぼくだけだろうか。 彼らの言説にもほんとうに誠実さをかんじるだろうか。ごまかして戯画化していることが何と多いことだろう。それなのに、その上、他者への言い方にしても、なにかはきちがえていないだろうか。人間的な違和感、これこそぼくの彼らへの批判の根源なのである。