一年余り前のこのモニュメンタルな過去節の文章が昨日11接続された。自分の連続を想起する縁(よすが)とさせていただく。深謝。
テーマ:自分に向って
ロシア・ロマンティシズムは、それじたいのなかに、深さ(Tiefe)と深淵(Abgrund)とをもつ。人間の営為が、圧倒的な自然という巨大な夢のなかで溶解してしまう。救いと虚無とが同居しているかのようだ。人間の営為を救うためにフランス精神が必要だ。そういうことをぼくはくりかえし感じ言っているようだ。
フランス精神とは、美意識であるような知性だとぼくは思っている。
覚書
内的観点と外的観点というものがあり、この両つの観点を調和させようとするところに「美」が見いだされ「真」が気づかれる。ただ内的観点のみでは妄信や盲信であり、ただ外的観点のみでは内実の否定や無視となる。
(知性は、この美を見いだし実現する美意識である。)
信仰は人間の本質である。美意識にみちびかれた内的信仰の意識に 真実と真理が顕現するとぼくは思っている。
美は魂の価値である。此の世のそれではない。愛が最も高きものであり、美が真の愛のしるしである。
美とは、感ぜられ感覚される理想である。「彼女は僕の理想だ」と叫ぶ男の言葉は世迷いごとではなく、そういう理想を感覚する力が人間にはあるのである。真剣に愛する者は、その愛する相手の価値への確信と信仰から、相手を所有したい自分の底知れぬ熱望と、相手をその価値あるそのままに在らしめておきたいという愛情の慈しみの配慮との間で、引き裂かれ、死ぬほどの憂鬱に襲われることすらあるだろう。こういう愛の神聖な真剣さの感情について、現代はその記憶の痕跡すら失ってしまったかのようだ。
真の愛の感情を忘れると、意識のすべてはその根源を絶たれ漂泊し、外的観点のなかに迷い込み、美も人為的なものでしかなくなり、美でなくなる。
死せる魂とは、真の愛なき、その代用物である虚偽のなかでさまよっている者たちすべてであり、そのようにして亡霊である者たちであり、〈生きる〉ために「生」を手放した、悪魔に喰われた者たちである、とぼくには思われる。あるいは、知のなかに迷い込み、生の知を忘れた亡者である、と思う。
いじょうの瞑想により、この欄の本質と根源を、すなわち「愛」を、いつも意識に顕在させておくように、また、真の愛のしるしとしてこそぼくが問題とする「美」の位置を、つねにあきらかにしておくように、欄題を、「愛と美について」とする。
愛と美とは、「具体的」でのみあることによって「普遍的」である様な唯一の真実であり、この真実のみが「創造的」な真実である。そこにのみ、形而上的な次元にわれわれが触れ得るものがある。
ぼくはいま、自分がやっと、このほんとうに大事な核心主題を、欄題そのものにして語り得るまでに自分の内実を得たことを感じ、この主題に集中し得ることを感じている。