復習しておきましょう。
創造主は、「宇宙はどうしてできたのかなあ、遺伝子はどうしてこういうみごとな配列なのかなあ、とても自然の偶然とは思えない・・・」と想像的感慨に浸るとき、イマジネーションで思念されるもの。
神は、自分(人間の個)がぎりぎり限界状況で自分自身であろうとして当面するもの。だから、そういう孤独な自分の境位を生きない者には関係ないもの。
この点、創造主は、たとえば科学者同士や宇宙生成論者同士の間で議論の対象とすることができる。神はけっしてそういう次元での議論の問題にはなりえない。
あまりに緊張感のない思惟において、むしろ、孤独のない空想において、神を宇宙生成主体として語っているにすぎない。 ヤスパースの「包括者論」を適用して言えば、「実存」にとってしか存在しない「超越者」を、「意識一般」の視点で不適切に思惟している誤謬にすぎない。スピリチュアリズムは、このことをどうしてもわかろうとせず、ゆえに、哲学不在のまま精神を語っている。こういう思惟態度を、(実存的に真剣な信仰的問いを、知的認識の問いにすり替えてしまうという意味で)グノーシス的態度と云うのである。
同様に、自由があるかないかという議論や研究も、意味があるとはぼくは思わない。自由は、それを感じるかどうかということがすべてであるような、自己充実意識の問題であるから。
きょうの梅の実です