「もとより、僕などより学者らしく哲理を述べた方々は僕もおおぜい知っている。しかし、彼らの哲学は、いうなら、彼らにとってよそごとなのだ。他の人たちより学者先生でありたい一念から、・・・ 何か機械でも見つけると、まったくのもの好きからそれをいじくり回すのと同じことだ。彼らが人間の本性を研究したところで、それは学者らしく語ることができるからで、おのれを知ろうとするためではない。彼らは他人を教えるために勉強しても、内面的に自己を啓明するためではない。彼らの多くは、ただ本を作ることしか望まなかった。それがどんな本でもいい、歓迎されさえすればいいのだ。・・・ 僕はちがう、自分が学ぼうと思ったときは、それは自分自身を知るためだったからで、教えるためではないのである。他人を教えるためには、自分を十分知ることから始めねばならぬと、つねづね僕は思っていた。 ・・・ 僕は、しばしば、そして長い間、自分の一生の使い方を定めるために、その真の目的を知ろうと求めたのだった。ところが、その目的たるや、この世では探求すべからざるものであることを感ずるにおよんで、ほどなく、自分が処世術に暗いことをそれほど悲しまないようになったのである。」 

 

(「第三の散歩」より)

 

 

註解不要であると思う。 

 

これは、意識して「自分に向って」に入れる。