相互に関連性のある三つの過去節を連続して呈示しました。馴染みの思想ではあるが、いまのぼくはくりかえしそれを自分に呈示しなければならない。いま、ぼくのなかに、いろんな思想要素が沸騰して、それぞれを生かさなければならない状態にある。それらは多様にみえても

統合されなければならないものである。



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作曲および演奏と造形芸術創作は本来、学術論文よりも真の「構成」-conposition-を示す。すなわち、感性と論理が結婚した真の知性の業(仕事)なのだ。随筆は背景に魂を持っていなければ、つまり「思想」を根源と目標にしていなければ、我慢のできるものではない。ところで、「魂」こそは思想の実体である。つまり魂はそれ自体のうちに「秩序」をもつのだ。ヤスパースの「絶対的意識」と、高田博厚の感性秩序の感得が、意味しているのはこのことである。真の「構成」はここから出てくる。「創作」は、素材と空間が異なっても等しく「魂の秩序という思想」を現わす「構成」の業である。創作はけっして恣意的自由の技ではなく、内的必然性が煮詰まった境位においてしか成立しない。創作者自身がそれをいちばんよく痛感していて、この「内的必然性」に肉迫し表現しようと心血を注いでいるのだ。何の不自然もない「美」を鑑賞者に与えようとして。

このことをぼくに示してくれるのは彼女の表現実践である。立派に「構成の仕事」をしている。随想執筆より遙かに「知性の仕事」に集中している。「芸術」とは本来これである。

この気づきを大先生の内的世界の自由と必然性の思想への沈潜追求に生かしてゆかなければならぬ。真の「造形」-つまり「構成」-はこの自覚の、つまり「純粋自己」の証言である。


甘美な魂はそれ自体の「秩序」-内的秩序-をもつ。この秩序こそ「形而上的親密」を在らしめるものである。ヤスパースの「絶対的意識」の秩序性はその基本を示している(「実存開明」)。ヤスパースも「形而上的アンティミスム」に資するものであることに気づいた。

芸術美は魂の親密性すなわち「純粋自我」の実証である。魂の幸福と愛の証言であり想起覚醒である。あらゆる人間問題に応えるものを蔵している。



ぼくはぼくの感性につまりぼくの魂の秩序に収まり適うものしか呈示してきていない。ぼくの魂がどういうものでありいかなる内的規範(秩序)をもつものであるか-何を愛し何を拒むか-かなり示してきた。これは趣味判断どころではなくぼくの本質判断-魂の判断-であり、従って、わたしの個人史的出会いに基づくものではあるが、同時にある普遍性をもつものであると確信している。「美の判断」とは本来そういうものである(だから美学と形而上学の本質関連問題が哲学においてずっと扱われてきた)。