この世の因果応報・信賞必罰そのものが不当で理不尽で不真面目で、人間を愚弄しつつ主体性を屈服させようとするものであることを、いまぼくは知っている。
そういうことで判断をぐらつかせてはならない。真の信仰というものは、まったく根源(原理)の異なるものである。
主体性を維持し、それだけでなく感覚が片輪でない者、そういう者がどれほどいるのだろうか。 とても重要なことを言っているのである。 ふたつをそなえた者をぼくはほとんど見いださない。 思想者では、ぼくにとって高田博厚とガブリエル・マルセルがそういう存在である。
このふたつをそなえていることが真の主体性であり信仰であるなら、偽の主体者と信仰者があまりに多すぎるということになり、ほとんどそういうものしか、じっさいわたしはみていない。
選ぶべき正しいものがあるのではない。主体性をもって選んだものが正しいのである。
梅も姫椿もよく咲いている。もう撮るのもやめてただ観ている。いちばんいい。 そして上品で清潔なきみをみているのがいい。
感覚こそは普遍なもので、ぼくがいいとおもうものは他者もかならずいいと思う。これはほんとにふしぎである。「感覚のなかに合理がある」(高田博厚)。
ぼくは自分の「魂の実証 ―記憶と意志― 序説 〈高田博厚『薔薇窓』の示すもの〉」に忠実でなければならない。
読者は この欄におさめられている「魂の実証 序説 (高田博厚論) ( 35 )」をお読みいただきたい。欄をはじめる以前に書いたものである。
力を入れているとなかなか外のものが入ってこない。
現在、力を抜く修練をしている。
日本においては、特に意識層に、正直ではないよけいなものが感性にある。それを、人間本性の純粋さを妨げないために払拭することが必要である。
信賞必罰は信念であって、ぼくも持っている。それは世間のものとはちがう。
ぼくは西欧人崇拝者ではない。西欧人を恥ずかし気もなく崇拝してみせる日本の知識者を軽蔑する。日本人みずからが西欧人に伍する密度の思索を展開すればよいではないか。それができない日本人が恥ずかしい。そのかぎりで西欧人を思想の範とするしかない。ぼくは彼らに伍する精神をほんとうに有したいと思う。そのための努力をする。基準は「人間」であり、日本は「人間」を得るのでなくてはならない。
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1911(明治44)年のこの日〔きょう〕、文部省が作家・夏目漱石〔1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12
〔脱けてなかったようだな、と一瞬思ったが、気持はわかるとやがて思った。日本から貰うと世間を受け入れることになるという感覚はわかる。当時は現在以上だったろう。〕