こう言うべきである:

 

形而上的アンティミスムは、「愛と美と信仰」のみを真理とする思想である。

 

 

 思想としての思想から足を洗った「脱思想」なのである。 上の真理における「魂の内的秩序」のみを、本質として信奉する。思想としてではない。認める思想は、前節の意味での記憶のみである。魂を成す主体的内面性の記憶は生きている。 

 

 

 われわれを苦しめ虚偽たらしめるのは思想なのである。虚偽の支えなのである。虚偽の夢から覚めて魂の真の夢のなかに自分を見出し、それ以外のものにもはや関わるまいと繰り返し改悛する精神が、この脱思想の中心意識(絶対的意識)なのである。

 

 この脱思想はほんとうの意味で「存在」を生きる思想であり、思想としての思想の不断の否定である。

 

 

 「信仰」とは、目前の地上的印象に呑み込まれないための不断の内的志向の緊張の努力である。(日本人は普段の生活でこの志向維持努力をする精神習慣がなさすぎる。海外ではふつうの市民が広範に純粋に心がけている。信仰は内面の主体性そのものであり、精神の伝統的欲求であり、人格尊重の礎である。「人間主義」はこの意識をはなれては ないはずである。 ぼくが日本人一般に最も違和感をいだくのは、この内的信仰意識の緊張のなさである。これは浄土信仰やご利益信仰のような所謂民間信仰ではない。個人がそれによって自立するための信仰である。)

 

 

 

形而上的アンティミスムは、定義的原理の意識の許でさまざまな具体的考察をする。

 

”私記 優美は神の恩寵 ”高田の作品の形而上性” ”


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ほんとうに奥ゆきのあるしっかりした表情をするひとだ。

繊細さをそのままに支える核の強さ(自分を受けとめ向き合える)がなければ芸術家は存在しない。

 

世人は、高きものへの忠実ということを正しく理解していない。ベルナールのキリストへの忠実の生はどうだったか。

 

奥ゆかしさは その核において他相手のものではない。みずからに向いているから奥ゆかしい。その奥には神がいる。この態度から存在論的魅力(マルセル)が生まれているのだ。これが真の優美(grâce)であり、恩寵と同語である。

 

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きみの音楽を慈雨のように浴びています

 

いまのぼくはほんとうにきみあればこそ  

 

理念の憧れを超えて、理念がそこから生じる現実に出逢わせてくれた