沈黙への解放の時期に入りたいので、読者のために思想の要諦や

ぼくの本質意識を、これら連続して再呈示した節で示しておく。

 

この欄を始めて三年近くになろうとしているが、書くことは日課や努力とは根源的に無縁である。なにも書かなくてよいのだ。書く内容がぼくに生じて書かせる。ずっとそれのみをしてきたのである。やってみようと意図してやったのはヴァレリーとヤスパースの翻訳だけである。

 

リルケは、詩を書かなければ生きていられないのが詩人だ、と言ったが、ぼくのはどういうのだろうか。


 


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形而上的アンティミスムの要諦は、自分(との関係)において、そして他者との関係において、創造的であることである。

 自分においては、「もの」を中心に(それによって神と関係しつつ)、自分を鎮静させて思惟し行為する、すなわち仕事することである。

 孤独の意味をかぎりなく深めること。

 他者との関係においては、自分の思惟(と存在)は他者に作用し他者と結びついていることを感じ信ずることである。

 交わりの意味をかぎりなく深めること。

 

 

 

 

思想的には 高田博厚、ガブリエル・マルセル、ヤスパースが大事である(ぼくの評価基準は世俗のものと違う)が、「実存」というものは意外にも感情抑制的なのである。抑制するのであり消すのではない。真の理性や知性が何かをむしろ示すものである。感情を解放すれば宇宙が炸裂するだろう。

 

 

 

此の世の生は「生存」そのものが難事であることは無論である。しかし、それとは別に、人間の「存在」自体に、「孤独と交わり」の形而上的深化への方向づけが刻まれており、これが「人間の本性」であるならば、これを問うて生きざるをえないのである(人間文化の歴史はこのことを証してきた)。自著にも同じ内容のことを書いた。

 人間が自らの根源的欲求として自分の内に感じる「愛」と「美」と

「信仰」そのものが、形而上志向なのである。「ぼくの愛と美と信仰」が実質主題であるこの欄で、自分自身を賭してぼくは(ぼく自身が「人間」の現実だから)このことを感得してもらおうとしている。無論、そのためにひとりの読者もなきがごとくに、自分に集中して、自ずから証をする結果になるよう生き書くのである。自分の欲することを為し、記し、載せる、そのすべてが本質的ななにごとかを醸していれば、その醸されたものが伝われば、ぼくが「生きる」結果として、他者を創造的に触発することになるだろうが、それが成功するとき、ぼくはそれを意図して生きているのではない。自分の真実を生きているのみである。 そのような人間しか「愛と希望と勇気」を他者に呼び覚ますことのできないことをぼくは知っている。

 

 

 

愛なき行為は虚偽の虚偽である。愛の意識そのものが創造なのである。そこにおいて行為は 愛を反映し 愛を惹起させるものとしてのみ 意味をもつ。

 

 

 

 

創造するためには潜らなくてはならない。潜る年にしようと思う。