昨日、いくつか前の再呈示節でこのように言っている:

 

『 愛というものは一体となることであると云う。これは孤独の放棄を意味しない。あらゆる善きもの、美、は孤独の沈黙から生れるのである。その「創造されたもの」を他者に伝えたい、共有したい、という思いが愛なのであり、それを他者と共有するに至った空間と時間が、実現された愛の瞬間であり、この意味でのみ「愛は一体となること」なのである。

愛は無償であるなら自己保持と同一であり一元的なものであることをぼくは「触知し得るイデー」論でも言っている。「自分自身のために語る神」は真の根源的な愛の神である。』 

 

この節でこのようにぼくは言っていることに自分で心を留めている。「無償である愛」が「共有したい」と思うのである。すべての条件つき共有は営業である。真に無償で所有欲を超えた所有に至る者は稀であり、あるいは世間の表に出ない。反対に、昔も今も、規模の大小にかかわらず宗教者の原理は、鎌をかける〈奪う愛〉であり、鎌の行為が示すように悪魔の原理である。宗教者と宗教的精神とは全く異なる。これをはっきりさせるために、後者を「メタフィジック」精神と呼ぶのである。

 

 

ところで、まったく突然、このような閃きが生じた(それゆえ、昨日の再呈示節に付加していたこの文全体を独立させて一節とした) : 「信じる」ということは、ひとつの「思う」ことであるが、この「思う」ことは「信じる」ことなしには成立していない。つまり「信じられるもの」は「存在している」のである。このマルセル的な存在論に沈み込める者はさいわいである。
 

 

(このような「思う」ことこそは愛である。)