めざすところ、重要なこと、などは、すでにかなりどこかで言っているような状態で今はある。そういうことを確認するためなら、過去の文を再提示すればよいのである。そういう、普通の言葉で真実を指示する状態から、いま一歩を踏み出したいという欲求を、いま孕んでいる。雑音をいっさい遮断したい。なにが生まれるかは知らない。そういう欲求を生きているだけでも精いっぱいという感じである。

いまのぼく自身に大事な覚書は、(覚書) 想像と記憶 ・ 感覚力と思索力 ・ 創造的想像力  [1月27日 02:31]。これでひとつ論究と実践ができる。 

(知識上の益よりも意識上の害のほうが大きい外部情報も遮断している。ほんとうに必要な報道などめったにない。昨日は、*〔必読節:集合容喙現象(集団容喙行為)関連〕 [2が5接続あった。正義感のある元気な読者は関心をもってほしい。真面目な問題である。)


 


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読むより書くことのほうに今は赴くことが多い。どんなことを書いてもぼくの本質は叙情性(lyrisme:リリシズム)にある。意識して詩を書かなくともぼくの存在そのものが詩の本質を現しているのだ。とまれ、本質的な詩人こそが「存在の本質」に触れ得るのだ。そして「詩」は言葉(による)のみではない。ぼくの場合は今のところ言葉でその「詩」を現わしている。 ぼくが世の名作を読まなくとも その名作は世界のなかに存在し 誰かに読まれているだろう。しかしそのオリジナリテが争われないぼくの文章は、ぼくのみの決断した行為の瞬間瞬間に世に生み出されるのであり、そうでなければ此の世に存在するようになることはけっしてないのだ。自分のなかにそういう尽きぬ創造の泉のようなものを感じる。 ぼくの状態は内外ともに雑音にみまわれているが それをつらぬいてその「詩」はいつもほとばしる。


ぼくは自分の存在そのものによって「詩」の意味を定義する。


「個性」はその存立基盤として「普遍」を持っている。


「いわゆる秩序なるものは内部にあるのであって外部にあるのではない」という言葉は「真」の大原則であることを繰り返し確かめる。


真の詩人は此の世を美化もせず 落胆もしない。限界状況を見据えて、悪魔崇拝ではない「存在の暗号」を聴取する。「内面に向って開かれた窓」。


「神は暴風のなかにではなく沈黙のなかで語る」とフランス・カトリック神学者ジャン・ギトンは言った。

 

 
高橋元吉

 
秋が来た
空を研ぎ雲を光らせて
浸み入るやうにながれてきた
すべてのものゝ外皮が
冴えわたつて透きとほる
魂と魂とがぢかにふれあう
みな一様に地平の涯に瞳をこらす
きみはきかないか
萬物が声をひそめて祈つてゐるのを
どこかに非常にいゝ国があるのを感じてゐるのだ!
 
一九一六・一〇


 
以前紹介した、これは、外界に開けた純粋感覚の、自我思念の詩である。
 




 
詩は思想を必要とする。思想の意味を解らねばならない。


人間は神ではない。自分の真実を歩みつつ偽りなく神に近づくのは何という遠い道か! その距離を測ることができないことが〔却って〕希望である。



 
ぼくのくりかえし書くことが貴方がたに周知のようにわかるようになれば貴方がたは生まれ変ったように貴方がた自身となり良く(善く)なっている。此の世は改善されている。
 


此の世に信頼してはならない。林の中をゆく犀の如く独り歩め
「ノスタルジア」の一情景
フランク ニ短調交響曲 第二楽章





詫びることも許すこともぼくに云わせれば誠実ではない。誠実とは言葉行為を超えたものである。言葉にしえぬものへぼくは決心したのだ。