■ 武者小路実篤 さんとの出会い 1
(全2回の内1回目)
遠藤剛熈
武者小路実篤さんの文学は高校時代から
読んでいた。健康で善意のある真面目な
青春の文学であった。「友情」「愛と死」
「真理先生」「馬鹿一」「レンブラント」
「芸に生きる人々」 などを読んでいた。
武者小路さんは白樺派の生き残りの
一人だった。高村光太郎はすでに故人と
なっていた。志賀直哉、寺田寅彦、
中勘助などを愛読していたので、会いたい
と思っていたが果たせずにいた。
志賀直哉の文章の清潔さを尊敬して
いた。志賀直哉と佐藤春夫との「ピカソ展」
についての対談を新聞で読んだ。志賀さん
はセザンヌを尊敬し、画家の鏡であり、
後世の人間の心をうつものだと語って
いた。ピカソの絵のあるものは長く
後世まで残るかどうか疑問だといっていた。
寺田寅彦の「どんぐり」、中勘助の
「銀の匙」のような純粋で繊細な文章が、
今の時代にあるだろうか。
小林秀雄さんに絵を見せた頃、私は
武者小路実篤さんの住所をしらべて
電話をして会いに行った。
武者小路さんは戦後三鷹市の牟礼に
住んでおられた。私の下宿のアトリエ
も牟礼だった。牟礼は武者小路さんの
後輩の友人の高田博厚や真垣武勝が、
若い頃にヤギの乳をしぼったりして
自給自足の共同生活をしていたところ
だったという。
私は真垣武勝さんの家の向かいに
下宿していたので、真垣さんとは絵を
見せたり見にいったりしていた。
武者小路さんは仙川というところが
水がよいというので、牟礼から住居を
移されて間もない頃だった。広い庭は
未だ出来上がっていないようだった。
初めて武者小路さんに会った時、
武者小路さんは背の高い骨格のしっかり
した人で、顔はしわとシミがあった。
玄関のドアをあけて中へ入ったところ
は板間になっていて、よく見えるところに、
岸田劉生が描いた、十号ぐらいの首から
上の横顔の「若き日の武者小路実篤」
の油絵がかけてあった。
「自分の友人の多くが死んでしまって淋しい」
と武者小路さんは私にいわれた。
応接間と思われる部屋に通された。
私は持ってきた武蔵野の畑や樹木や
肖像や人体などのデッサンの束を見せた。
……
(次号へと続く)